U-Nextでルカ・グァダニーノ『胸騒ぎのシチリア』。声帯の手術を兼ねて訪れたシチリアでヴァカンスを楽しんでいるロックスターのマリアン(ティルダ・スウィントン)としがない映像ディレクターのポール(マティアス・スーナールツ)のカップル。そこにやってきた驚くほど遠慮のない旧友=ハリー(レイフ・ファインズ)が、二人の時間を切り裂く。連れてきた娘=ペン(ダコタ・ジョンソン)も含めて四人の生活は、声を出せないマリアン、自殺未遂の過去を持つポール、かつてマリアンと恋仲であった音楽プロデューサーのハリーと、各々が思惑と事情を抱えていてストレスフルである。
崖から落ちそうで落ちない車、干されたスニーカー、ローリング・ストーンズの古いアルバム。いい人が一人も出てこない。全員が胸に抱えた一物 を、酷い形で噴出させていく。ただ不穏な雰囲気が持続するだけではなく、視覚的なモチーフを上手く機能させることで、時空ごとおかしな雰囲気にしていく演出は切れわたっている。そうした不吉な空気が遂に爆発してそれが白日のもとに曝された瞬間を、明らかなコメディ調に調理し始めたのは異様すぎて、流石に笑ってしまった。
俳優陣、特にレイフ・ファインズの演技が素晴らしく、そのおかげできちんと全員にムカつき続けることができた。終盤、その異様を演出するためにキャラクターを利用している節があって(特にいくつかの謎が暴露されるも、特に物語に影響を与えることなく退場していくペン)、若干着地に失敗している感があったのがマイナスではあったが、大変面白かったです。アラン・ドロン主演『太陽が知っている』のリメイクなんすね。原作も未見なので、新鮮だった。
女優さんが「脱ぐ」ことを称揚することを「前時代的」と糾弾する流れがあって、それにずっと違和感を感じている。勿論、無駄に脱がせる搾取的なヌードっていうのはあって、それはそれで問題だとは思う(園子温のことを書いています)んだが、別問題として切り分けなければいけない。ある感情やシチュエーションを表現するのに裸が必要になることはある。そんな作品の質に寄与するために裸になった女優さんは、素晴らしい仕事をしていると称賛されてしかるべきだと思う。古くはマイケル・ウィンターボトム『CODE46』における、サマンサ・モートンの脱ぎ方は興ざめだったし、最近だと『ナポレオン』のヴァネッサ・カービーはひどかった(言うてもこれは女優さんの問題ではなく、脱げない女優さん相手には別の切り口で演出するべきだし、絶対に脱がなければならないシチュエーションなのであればキャストを変更すべき)。逆に、『哀れなるものたち』のエマ・ストーンとか、『インフィニティプール』のミア・ゴスは、脱ぐことで作品の価値を引き上げているのだから称賛されるべきだよな、と、改めて思いますよ。
やっぱガッツリと録音し始めると、ゲームやってる暇はないな、と実感。昨日古いの二曲、今日新しいの二曲。俺、今、SSWとして黄金期迎えてるんじゃないかっていうぐらい、すっごい良い曲出来てるんだけど、信じてもらえないんだろうなと高を括っている。全然問題なし。昨晩、月見湯で外気浴しながら、むすこと話していたことを思い出した。
むすこは今、塾でScratchの勉強をしていたり、自宅で動画編集やってたり、自分で新聞書いたりしてるんだけど、どれも上には上がいるっていうことに気づき始めており、そうするとやる気が無くなってしまう、と言う。おとうさんも、そういうことないか?と。確かに若い頃は「何であいつのCDがあんなに売れているのに、俺は誰からも相手にされていないのだろう…」的な怒りやモヤモヤと隣合わせで生活していて、それは確かに自分を鼓舞してくれるものでありながら、しかし一発触発であった。自分の場合は、たびたび酒に逃げたし、初めて作品が全国流通に乗る前週ぐらいに、渋谷のタワレコで面出しのCDに呪詛を浴びせながら泣いてたことがあって、それは素面だった。よくする話なんだけど、一番ヤバかった。でももうそういうのは、すっかりどうでも良くなってしまったな。自分自身と、音楽史との戦いでしかなく、そうした内面で起こっている闘争が一番果てしなくて面白い、ということに気づいてしまったってことなんだと思う。外側から見ると諦念に見えるかもしれないけど。
今日はトリュフォー『あこがれ』と、ケネス・アンガー『マジック・ランタン・サイクル』より『花火』『プース・モーメント』『ラビッツ・ムーン』の短編を観る。ヌーベルヴァーグの先駆けとして有名な冒頭の自転車のシーンなど、『あこがれ』にはたまらないシーンが沢山ある。トリュフォーの良いファンではない(『大人は判ってくれない』は大好きだけれども)ことを自覚しているので、U-Nextに大量追加された今、改めて向き合おうかなと思わされる良作だった。ベルナデット・ラフォン(『ママと娼婦』の!)が本当に美しく、割と直球で、彼女を撮りたかっただけなんだろうな。
ケネス・アンガーは、屈折した性欲を屈折したまま描いた『花火』が良かったが、他二本は今観てもピンと来なかった。
妻とむすこの散髪に付き合って代官山へ。いつものように蔦屋書店で時間を潰す。Lydia Davisの原書があってかなり心惹かれたんだけど、4万円スられたことを思い出して我慢する。平積みされた映画雑誌の中、これみよがしに『映画芸術』のベスト&ワースト号が置いてあり、チラッと番付見て目を疑った。そっ閉じ。でもここまで来たら荒井晴彦『花腐し』は意地でも観てやろうと思っています。
むすこをピックして、クレーンゲームの集まったビルで遊ばせてから、近所の月見湯へ。小雨降る中、サウナと外気浴が気持ち良い。上がると髪染めを終えた妻から、ジャストタイミングで最寄りの駅に着いたとの連絡。そのまま落ち合って、最近再評価著しい鳥貴族に家族を連れて行く。鳥貴族より美味い居酒屋は沢山あるが、そういう店は概ね鳥貴族より高いか、鳥貴族より混んでるか、鳥貴族より遠くにあるし、下手すると鳥貴族より高くて不味い店というのが山程ある、という「鳥貴族最強説」を最近心の中で唱えている。ただ、都会の鳥貴族はきちんと不味かったりするので、場所にも依るかもな。今日も値段以上に美味くて安かったです。
下高井戸シネマで開催されている特集上映「日々をつなぐ」で、飯岡幸子監督『ヒノサト』と、大川景子監督『oasis』を観る。どちらも説明のないドキュメンタリーという共通点がある。説明のないドキュメンタリーは、大部分で解釈が観客に委ねられるので、下手すると迷子になるが、ある種のパズル的な快感もあったりして面白い。
『ヒノサト』は、そういった意味でもかなり難しい一本で、20年ぐらい前の作品ということもあり「説明のないドキュメンタリー」というものの方法論が確立していない頃の雰囲気も色濃い(「ドキュメンタリー」というものの方法論も、この20年で随分多様になったと感じる)。飯岡監督のおじいさんが描いていた絵が地元の学校などいろいろな場所に飾られていて、彼の存在が地域に根ざしていることがうっすらと伝わるようになっている。そうした説明が一切ないので、解釈が難しい部分がある、というのがわかりやすい難点にも思えるが、単に一介の画家の物語としても成立しているので、頭を切り替えられれば問題ないはず。杉田協士監督作品などで撮影監督を務めている飯岡さんの作品であるので 、その「風」の表現に注目して観ていた。カーテンなどの揺らぎから、「風」を撮影しているな、と感じる部分が多い。体育館や学校、自宅など、場所は様々だが、地域に吹く「風」はすべてをかすかに揺らしている。
自転車好きの男性とアーティストの女性。港区を自転車で徘徊し、面白い場所を見つけると動画や写真に収め、それが作品のモチーフになる。そんな二人の生活を捉えた『oasis』はカラッと楽しい作品。行政の都合で、川の上を高速道路が走り、その影に弱々しく雑草は生きているけど、カメラはそれを批判するでもなく、ただ捉えている。都市との対峙の作法についての記録。自転車好きの男性が街の歴史を説明し、それをふまえて見つけた面白い場所やものが、女性の作品に活きてくる。そんな生活の在り方がすごく理想的だが、実は俺達夫婦+むすこも、割とそういう生活をしているので、なんかすごく深く共感してしまった。ただ、自転車整備場と、アトリエと、生活の場が一緒になっているあの狭くて機能的なな家は羨ましかったな。
もう一組、録音と整音を担当している黄永昌さん夫妻の生活も描かれるのだが、この二組が直接絡むことはなく、片方は目で、片方は耳で、この都市を捉えていくのだ、と考えると、自分の知覚すら拡張されたような感覚になって、とても嬉しい気持ちで帰宅した。
『バッド・キッズ 隠秘之罪』完走。同じ原作を持つ日本の『ゴールドボーイ』と、シチュエーションは一緒だが、展開も結末もまるで違う。すごい。サム・ライミ版『スパイダーマン』と『アメイジング・スパイダーマン』ぐらい違う。『ゴールドボーイ』未見の妻に、色々説明しながら観る気満々だったのに、途中からそのアドバンテージもなくなり、ほえ〜とか声出てた。12話分の味わいがあり、これはこれで良い。逆に『ゴールドボーイ』の「深みを捨てて、オモシロに振り切る潔さ」も、改めて感じた。両方アリ。
アンドリュー・カウフマン『銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件/奇妙という名の五人兄妹』読了した。ブラックなおとぎ話掌編『銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件』も良いが、『奇妙という名の五人兄妹』の素晴らしさに息を呑んだ。これ、誇張なしに、マジで。家族が「呪福」と呼ぶ特殊能力を持つ五人兄妹が、死にゆく祖母にその「呪福」を解いてもらう物語。例えば「人を許してしまう」能力を持つアンジーや、「道に迷うことが出来ない」能力を持つルーシーなど、一見役に立ちそうなその能力が、実は足かせになっている、ということを信じられるか信じられないか。五人の中でも微妙に意見が食い違い、旅は一筋縄ではいかない。
五人兄妹の元を訪れる主人公・アンジーの身には次から次へとおかしなことが起こり、『リトル・ミス・サンシャイン』のような風情の旅が、矢継ぎ早に不意打ちの突拍子もない展開を見せ、頭をぶん殴られたような気分になってくる。その突拍子もなさは、アリ・アスター『ポーはおそれている』的とも言えるかも。すごく映画的で、 「映える」物語なので、どこかで映画化してくれねえかな。その際はぜひ、アンジーにイモージェン・プーツを!
自社採用の候補者と採用前にオフィスで話す、みたいな所謂「アトラクティング面接」という儀式があることを、転職エージェントの担当の方から聞いた。よしやってみようということで、大量のドーナッツを購入して候補者とオフィスで挨拶したら、2時間半ぐらい話し込んでしまった。バックボーンも年齢も、何もかも全然違うのに、なんとなくウマが合うというこの感じを大事にしたほうが良いと思う。あと、声はデカくて圧が少なめ、というのも良い。オファー受けてくれるといいな…。
プロレスには縁遠い流石の俺でも知ってるフリッツ・フォン・エリックの「呪われた一家」。観ながら、帰ってWikipediaを読むのがこんなに楽しみになった映画も久々。悪役レスラーとして名を馳せた自身の夢でもあったチャンピオンベルトを、息子たちに獲得させるため、問答無用の圧をかけるフリッツ。その後、息子たちに降りかかる凄まじい不幸の連続は、しかし父親の所業が原因なわけでもないし、信仰に篤い母親のせいでもない。
確かに「子育てにおける難事をすべて兄弟に丸投げして、「兄弟同士で解決しなさい」と告げるのは、いくらなんでも雑すぎる」と直接的な原因があるわけでもない不幸な結果からそう導き出すのはそこまで突拍子もない結論とは言えないのかも。でも、僕には「父親の育て方が悪かった」と高みから言い捨てて他人事にするのはどうしても気持ち悪いところがある。というのは、子育てって正解が見えないから。今、一人息子を育てている自分でも、この育て方が正解なのかもわからないし、何よりその答え合わせが出来るのは、最短でもあと7年後ぐらいの未来なのだ。
肉体改造の結果、類人猿のような顔になるところまで含めて、ザック・エフロンの凄まじい役作りが印象的な一本。対象的に描かれるフリッツとケヴィン、それぞれの子育て。広い庭でアメフトに興じる家族。真から仲の良い兄弟がフットボールをプレイしている姿と、現在の自分の 子供達の姿を重ね合わせ、若い頃は決して父親が許さなかった人前での涙を、ケヴィンは堪えることは出来ないのである。
『渚の果てにこの愛を』のミムジー・ファーマー堪能した。素晴らしい。
ロッキーという息子と間違われた主人公ジョアンは、その母親マラ(リタ・ヘイワース)の狂乱に乗じて息子に成りすます。しかし、不思議なことに、狂っていないはずの周囲の人間、特に妹ビリー(ミムジー・ファーマー)ですら、ジョアンのことをロッキーと信じて疑おうとしない。それでも例えば、マラのことを慕う隣人がジョアンを見る目に少し影が差すと、「このじいさんは気づいているのかもしれない…!」というサスペンスが発動する。この不気味な状況がミステリーとして機能していて、飽きの来ない90分強だった。
でもやっぱり、ミムジー・ファーマーの圧倒的な色香。この時代の、この俳優にしか出せなかった、独特のもので、可能なら物理ディスク買って愛蔵版にしたい、と心によぎったぐらいの美しさでした。『MORE』も良かったけど、俺はあっちより好きだったな。
漫画家としてのキャリアを如何に構築していくか、という意味では熱のこもったアドバイスではあるが、やおら机の上に全裸で立ち上がり「俺を描け!」と指導する教師はどうかしてる。芸術に一途すぎて盲目になっているが故の奉仕なのか、性加害性を多分に含んだ蛮行なのか、確かめる術もないまま、ロバートの目の前で事故死するカターノ先生。「個性を貫け」とは、本心なのか下心なのか不明な言いっ放しのアドバイス。しかし、そもそもそんなものにすがるのが悪い、と責めるのは冷たすぎる。
そうした下品と芸術を一方の極に置けば、他方にはスノビズムと保守があぐらをかいている。「道を踏み外せ」とそそのかす下賤の民と、「道を踏み外すな」と縛り付ける退屈な凡人。その極をフラフラと地に足のつかないロバートは、学校を辞めると宣言し、家を飛び出して貧民街にアパートを借りるが、そこは映画史に残るレベルの悲惨な住居。簡単ではあるが、思い出せる限り、その悲惨を書き出しておきたい。「住んでいることを人に漏らすな」との命令や、室温をみだりに上昇させている「法律では止めてはいけないことになっている機械」、「何がいるのかわからない」水槽などの説明がなされることはない。L字に置かれたベッドで、木の枝みたいな黒人のおっさんとの二人部屋。家主とそのおっさんは、夜な夜な汗で肌をぬらぬらと濡らしながら、汚いノートパソコンで古い映画のDVDを観たり、ロバートの持ち込んだ卑猥なコミックでいけないことをしたまま眠る。
そんな貧民窟のような部屋で暮らすロバートの前に、かつてコミック業界で働いていた男・ウォレスが現れる。イメージ・コミックス社でカラリストのアシスタントをしていたというその男を、コミック業界と自分をつなぐ蜘蛛の糸のように信じ込んでしまったロバートは、彼に有料のレッスンをお願いする。かすかな希望に見えたその邂逅が、いつしか悲惨な袋小路への道しるべにしかなっていなかったことを知ると、ロバートの人生は前にも後ろにも進まなくなってしまったように感じる。
A24製作のブラックコメディ。『イカとクジラ』に出演していたオーウェン・クラインの初長編監督作で、サフディ兄弟がプロデュース。冒頭から音楽が良いなと思っていたら、ハイ・ラマズのショーン・オヘイガンだった。極上の「ニキビ映画」でもあり、彼らの肌の汚さが、彼らの未熟さを表現している。醜いものを醜く、汚いものを汚く描く、傑作だった。
仕事でミスってしまった…。大チョンボ…。ホント申し訳ない…。公開タイミングのハンドリングはミスらないようにしたいです。
渋谷、「雑中華」と呼んでいる雑な中華屋(でも美味い)で元&現同僚と飲む。音楽の趣味があう人たちの集まりなのに、話題はずっと政治のこと。イスラエルとパレスチナのこと。もう、気楽に音楽や映画の話をしていれば良かった時代は終わったんだ…と悲しい気持ちがないと言えば嘘になるが、真正面からこういう話が出来る友達がいて嬉しい。でもマールタ・メーサーロシュの話も出来たし、ZINEやイベントやろう、って話にもなったのが良かった。少しでも日常が前に進む飲み会が一番好きだ。
月曜日。久しぶりに朝バスケ行けて嬉しかった。もう大分暑くなって、図らずも有酸素運動になった。昼 には食事しながら『バッドキッズ』。すべての展開を知っているはずなのに、なんでこんなに驚いているのか、それは、翻案があまりに大胆だったからですね。速度は損なわれ(そらそう。『ゴールドボーイ』は2時間、『バッドキッズ』は全12話)、解像度は上がっている。今日観た第五話では、東昇の出演はなしで、ひたすら朝陽父の再婚相手の執拗な行為にスポットを当てていて、これ映画では前日譚としてほぼ触れなかったところ、もしくは、役柄が分割されているが故に発生しているイベント。妻が「これ、どうやって解決するの!?!?」と心配していたが、いやいや、これはアクロバティックな解決をするのですよ…。ただ、それが本当にそうなるのか、全く自信がないのである。
ビックリするぐらいポリティカルだった1968年の日本映画『昆虫大戦争』を観ながら、PV制作のためのコラージュの準備。グリーンバックのために布まで購入し、これ、上手くいくのかね、金ドブに捨てたかな…とか絶望的な気分になっていたが、After Effectsに落とすと、いやー見事に抜けるもんですね。感動。スクリーンでは 、あれほどオッペンハイマーが危険視していた水爆がパラシュートで放り出され、それを血眼で探すアメリカ軍が批判的に描かれる。適当なちょいエロインサートかと思っていた前半の水着美女が、とんでもなく重要な役割を担っていたりで油断できない。「大戦争」と煽る割には、昆虫は地味なムーブを繰り返し、どちらかと言えば「大戦争」しているのは人間の方。狂っていく黒人兵が日本語ペラペラなのも凄いけど、本当に狂っているのか、麻薬中毒の戯言なのかを確かめるために、故意に昆虫に刺されるという決断を下す科学者の狂気もなかなかのもんだった。ラストは本当に身も蓋もなくて口あんぐりでした。
春の井の頭公園。人気の「台湾老劉胡椒餅」ではなく、その近くにできた「囍茶東京」で胡椒餅を食べる。ネギが入っててとても美味い。マスコットキャラが妻に似すぎてて、みんなですごく笑う。
Netflix『忍びの家』最終話。すごく満足した。ジョン・ウィックmeetsポリティカル・サスペンス。ノイズにならない程度に取り込んでいる功夫要素もバランス感覚が良い。物語的には全く終わっていない、むしろこれからなので、シーズン2を心待ちにしてます。
夜は下高井戸シネマで杉田協士監督『ひかりの歌』。妻も興味持っていたが2時間半もあるので家族では無理。アフタートークで杉田監督と、第二章の主人公今日子役の伊東茄那さんが来ていて、ラッキーだった。『春原さん〜』の原作が東直子さんの短歌で、おや?と思い帰宅すると、原作本が家にあったので、妻に勧めてみようと思う。高揚した気分のまま、月見湯へ。暖かい春の好い日だった。