消された聖火 - 不 可 視 の 学 院

2008年北京オリンピックにおける、聖火リレー問題ですが、僕はしばらく前にこの記事を読んで、どう考えてよいのか咀嚼し切れない部分があります。結論から言うと、やはり僕は聖火リレー〜中国で行われる「平和の祭典」に対して、何らかの反応(抗議の姿勢)を示すべきだという意見を持ってます。でも、改めてそこに辿り着く為に自分の中で意見を一周させる事が出来ました。加えて、最近、市民活動や抗議運動に興味があった(どっちかというとネガティヴな意味で)ので、考えをまとめる上でとても参考になりました。

これからの時代は、政党や国家の枠組みを超えた民衆運動や市民運動が、政治の主役になっていくことは間違いない。
しかしその時代を見越して、世界の支配層は、既にそうした運動を体制内部に取り込み、道具として使い始めている。それを統率するのは、自称「ジャーナリスト」や「人権活動家」、そして体制に手なづけられた社会民主主義者だ。
アメリカが軍事力を使って20世紀の覇権国になったように、ヨーロッパはそうした民衆の力を利用して覇権を確立しようとしているのかも知れない。
そのひとつの象徴的な存在が、ベルナール・クシュネルや「国境なき記者団」であり、今回の聖火リレー妨害は、その最初の目に見える「戦果」だと言えるだろう。

人権活動家や運動家が、ヨーロッパにおける利権の大きな枠組みの中で利用されており、今回の聖火リレーの件はその最初の大きな成果として記憶されるだろうという説。とにかく聞いた事も無いような詳説に、凄まじい量の知識としっかりとした組み立てに裏打ちされた記事だと感心し、興味深く読ませてもらったのですが、釈然としない思いも。

(中国のチベットに対する)暴力に対して、(民衆の聖火ランナーに対する)暴力で対抗する…、という力の論理が、我々の否定し抗議していたはずの新たな暴力に繋がる、と言うとそれはそれで納得も出来るんですが、それを言うにはいささかロマンチズムが過ぎる上に、おおよそ政治の話が関係ない分野の話と交錯しまっているのではないかという気もします。

多分、「では僕は傍観するしかないのか」という、アクションの話になってくると思うのですが、勿論平素であれば聖火リレーなんて普通に傍観すればいいんですけど、でもそうではないだろう、それがまた別の体制に利用されるのだとしても傍観はないだろ姿勢として、暴力も用いない、法も侵さない何らかの形で、中国が脅かしている「自由」と「平和」に対する意見を表明していく必要があると思うんです。

※テレビ等で、「暴動」と称されるのにも、違和感があります。これも、改めて言葉にしたいんですが。「派手じゃなければ武器にならない」という世界を先導しているのは、テレビじゃねえか、と。

僕はユーモアは最大の武器だと思っているんですけどねえ、それこそ端的に「自由」を表明する近道だと。

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