いつも想田監督映画のサブキャラクターとして大小様々な役割と担ってきた「猫」が、今回ついに主役。しかしながら、当方猫には全く興味がないため乗れるか不安だったのですが、問題なし。能動的に観れば観るほど得られるものが大きくなる。そんな「観察映画」の最新版として、いつも通り楽しく観ました(俺は『Peace』からずっと、ほぼ「謎解き映画」として観てる)。
想田監督夫妻がNYから移り住んだ岡山県牛窓の「五香宮」という社に住み着いている大量の野良猫を始点に、マクロな視座を以て社会を批判的に見つめ直す、というスタンスを取りながら、巧妙な編集の賜物として複数の視点の可能性が散りばめられる。序 盤から、癒しを求めて野良猫に餌付けする女性が出てきて、ぶっとい社会批判にたどり着くが、この映画が行うのはこういう無邪気な人たちの批判ではない。一方で、増えすぎた野良猫を避妊・去勢していくという町の決断は、無垢な子どもの「増えてもいいのに。かわいいから」という声に対して決定的な力を持たない。
老人の多い牛窓。公園に関わる人も様々で、毎日ボランティアで草木の手入れをする人や、去勢手術を行うために野良猫を捕獲する人など、その多くが牛窓に生まれ、戦争を経験している。こうした老人たちを繋いでいるのは地元の古くからの風習や宗教であって、それが行動倫理の一部になっていることが確認できる町の寄り合いのシーンが一つのクライマックス。ここで、野良猫の問題と、地域の倫理問題が絡み合い、「なんか、うまくいかないもんっすね…」が表出した後、うまくいかないまま妥協案が提示される日本的な政の場が現れる。でも、それって、いつの間にか戦火に突き進んでしまった社会の「不具合」と同根でもある。…でもねえ…。悪い人は一人も出てこない。それぞれが、町のそれと複雑に一体化した自分の価値観に向き合い、答えを出していく。
ところが、ここに刺客が現れる。この倉敷から来た「よそもの」が、カメラを片手にこの町と野良猫の関係性について、よそものならではの鋭い角度から批判的な言及を始める。想田監督の「観察映画」には、こうした場を一転させるキャラクターやシチュエーションが度々登場する。『港町』の「死のうとした」婆さんや、『Peace』の「橋本さん」、『牡蠣工場』の若い奥さん、など。ここでも、もう一人の能力者=観察者の出現に、急速に場がピリつき、話が振り出しに戻っていく。
成り行きで当事者となってしまったプロデューサーの柏木さんの太極拳や、想田監督本気の「困ったなあ…」、ディザスター映画としても手に汗握ったりと退屈している暇などない。この簡単には結論が出せない感じに、思わずイスラエル・パレスチナ問題を想起してしまった。こうして、映画を扉にして、心にいくつもの視点を宿らせる事のできるところに、「観察映画」の魅力が詰まっている。
これを「アクションコメディ」と呼ぶのは、『パルプフィクション』をそう呼ぶのに近い。ほぼ詐欺である。「天使の処刑人」も、ど直球の詐欺案件。作りとしてはチュルヒャー兄弟『ガール・アンド・スパイダー』とかに近い感触の映画だと思う。
とは言え、物語は、タランティーノばりにケレン味たっぷりのガンアクションから幕を開ける。そこでのいくつかの些細な違和感は、2010年代的なケレン味の中で回収されるかと思いきや、シアーシャ・ローナンとアレクシス・ブレデルによる「美少女殺し屋コンビ・バイ レット&デイジーの日常」という今では「ベビわる」に継承されるスキームの中で、じわじわと膨らんできてしまう。ドレスが買いたいから割りの良さそうな殺しの仕事を請ける、というところまではわかるが、組織のメンバーであるラス(演じるはダニー・トレホ)と手遊びしている姿を、従来の「ケレン味」で処理するのは難しい(二度言うが、演じるはダニー・トレホだよ)。
次なる処刑のターゲットが留守だったので、銃を持ったまま眠りこけてしまう二人。帰ってきたターゲットは、こともあろうに眠る二人の殺し屋にやわらかな毛布をかけて、自分も眠ってしまう。完全にプロ意識の欠落した「凄腕」の殺し屋二人であるが、その二人が眠るソファのすぐ後ろの壁には、ターゲットの娘とおぼしき写真が飾られていて、さっきまで留守番電話でターゲットを罵倒していたのも、この娘なのであろう。この不在の娘の写真は、執拗に二人の間に配置される。まるでそこにターゲットと対峙する「3人の娘」がいるようにも見える。
劇伴はほとんど鳴らないため、静寂の中、ターゲットと「3人の娘」の対話が始まる。組織に対して盗みを働き、追われる身になってしまうターゲットは、同時にライバル組織の方にも同じような裏切りを行っていて、都合二つの対立する組織に追われている状態。ターゲットが危機的状況に陥る度に銃弾を使い果たすバイオレットとデイジーは、その都度、 近所の闇ショップまで銃弾を調達にでかけなければいけない。こうして、処刑までの時間は引き伸ばされ、弛緩していく。
無垢なデイジー(シアーシャ・ローナン)が、ターゲットとの対話を通して仲を深めていく一方で、神経質なバイオレット(アレクシス・ブレデル)はその悪夢的な時間感覚の中でいくつものオブセッションに囚われ、自分を見失っていく。かつて失ってしまったパートナーのローズ、何かを足で踏みつけにする事(「けんけんぱ」のことを、英語では「Hopscotch」と呼ぶらしいです)、飛行機の影と事故。この「容易い仕事」にいかなる結末が用意されているか、も大変な関心ごとではあるが、それ以上に気になるのは、仕事を終えた二人の「美少女殺し屋コンビ」は、何事もなかったかのように、あの部屋での生活を再開させるつもりなのだろうか、ということ。
章立てになっているこの物語が、9章だけ「9A」と記されていたことに注意したい。いくつかある結末の一つで、個人的には一番突拍子もない展開がチョイスされたと感じたが、肝心なのはこれが「9B」であっても「9C」であっても、続く「One More Thing」はきっと変わらなかったであろうこと。それは、ドレスを着たデイジーに、ターゲットが「エイプリル!」と怒鳴った時点で決まっていた結末だったはず。バイオレット、デイジー、ローズ。そして娘の名前は、エイプリル。まるで春の小さな花壇を見ているような映画だったと思う。
今のチームになって、初めてペアプロにトライしてみる。自分でホストしたことがなかったので不安だったんだが、すごく楽しく終われてよかった。みんなで和気藹々とコードを書けばよいところを、何故かゾーンに入ってしまい、無言orブツブツ独り言言いながら、超高速で実装してしまいちょい反省。
金曜日、一週間の疲れを引きずったむすこと、近所のつけ麺屋で食事を済ませた後、ルネ・クレマン『パリは霧にぬれて』を観る。タイトル通り、濃い霧に包まれたパリで、貨物船に揺られるフェイ・ダナウェイを捉えた冒頭のショットの完璧さに、思わず唸り、ここで映画が終わっても良いとすら思う。自分の子どもたちが誘拐されてしまう未来を暗示する不吉なシーンでは、灰色の街、灰色の階段を黄色のフラフープが落ちていく。わかりやすく黄色がアクセントとして効いていて、めまいがするほど良い。
しかしながら、この謎めいた誘拐事件を捉えた物語は、後半、わかりやすく安っぽさを露呈して大失速していく。文字通り「組織(Organization)」と呼ばれる存在が明らかになっていく中、この「組織」の計画があまりに杜撰すぎるのである。ただただ、段取りが悪かったり、頭が悪かったりで、ぐずぐずと自爆していく「組織」を見て、なんか苦笑するしかなかった。全盛期のフェイ・ダナウェイがハッとするぐらい美しいのだが、皮肉なことに「組織」の間抜けさを強調するだけになってしまった。とにかく、冒頭だけ、観てみてください。予告でも雰囲気は味わえます。
ミュウ=ミュウとユペール様主演の『女ともだち』を観る。大戦化のヨーロッパで、夫をドイツ兵に射殺されたミュウ=ミュウと、ナチスに捕えられた収容所で、出入りの兵士から求婚されて出所が許されたユペール様が、終戦後にお互いの子どもを介して仲良くなる。家族ぐるみで仲良くしている二組の様子を捉えながら、情事や裏切りなど、いくつかの重大な事態が起こっても軽くスルーしてしまうという、すごく変なバランスの映画。その代わりに、突然ごく些細に見えるようなことに妙な力点を置いて語り始める。車での帰り道、先をゆくミュウ=ミュウ一家の車を、ユペール様一家が追い越すシーンなんて典型で、不必要な緊迫感を以って描かれる。その結果起こることと言ったら、減速したミュウ=ミュウ一家の車から息子が出てきて嘔吐する、という…。
それがすべて成功している、とは言い難いが、独特の雰囲気があって面白い。結局、この物語自体がある 程度実際の二家族をベースに組み立てられているということがあって、このような歪なバランスになってしまったのだろうと思う。悪くはなかった。パントマイムで爆笑するユペール様が見れるというだけでも、価値のある映画だった。
傑作回だった第6話の次は、ちさとの実家に行くというチルアウト回だった『ベイビーわるきゅーれ エブリデイ』第7話。アクションはほぼ一切なく(シャボン玉を避けるときに若干動いたぐらい)、ひたすら実家でだらだらするだけ。なのに、自宅に帰ってスイカを食べながら、ちさとが生きているはずだったもう一つの世界線を想像してしまい、ボロボロと涙を流すまひろ。殺しと解放が同時に行われる6話に続いて、静かにすごい表現をブチ込んだ傑作回。このドラマがどこに向かうのか本気でわからなくなってきて、ワクワクしている。
観終わって溜息が出た。すごい映画だった。なんにせよジュリエッタ・マシーナを見る映画ではある。恋人に突き飛ばされて川で溺れ死にかけた冒頭、助けてくれた人たちに感謝の言葉も言わずに悪態をつきまくる娼婦カビリア(ジュリエッタ・マシーナ)は、とても愛されるようなキャラクターには見えない。ところが、大物俳優との思いがけない逢瀬で彼に引かれようとマンボを踊る無邪気な彼女。都はるみみたいな顔をして、チャップリンのような愛嬌を見せる彼女を見ていると、いつの間にかその躍動する生命に魅せられている。
脚本でパゾリーニも関わっており、序盤の娼婦たちのシーンは、なるほど『アッカトーネ』(本作の四年後、1961年に公開)で観た、あの「ストリートの夜」なのだ、と思った。猥雑で下品なローマ。そうすると、この映画の序盤は一種の「ストリートムービー」であるとも言える。イタリア〜ローマの地理には疎いが、おそらく貧困に喘ぐ田舎の娼婦が、都会の洗練された人々に馬鹿にされ、笑われ、騙される「ストリートの物語」である。
例えストリートを離れていたとしても、始終しかめ面、下品で粗野な彼女が、不意をつかれたり本人が望んでもいない形で、思いもがけずその「純真無垢」を曝け出す。神も、金も、自分を助けてくれない。あまりに絶望的な展開に鬱々と落ち込みそうな瞬間に、そ れでも生命の輝きが空間を満たしている。その瞬間の美しさは何物にも変え難いものがあるのだ。
怒涛の仕事デーですわ、ここから…。とか決意を新たに仕事しながら、夕食に常備菜を導入しようと決めた。今日は、きゅうりにごま油と塩昆布まぶすやつでお茶を濁したけど。初めてカジキマグロ買ってきて、バターソテーにしたら非常に美味く、むすこにも好評だったので無事先発ローテーション入り決定。
ルイス・ブニュエル『哀しみのトリスターナ』。「これは、どういう映画なんだ…?」と(ブニュエルなりに)オーソドックスな恋愛映画を想定して観ていたら、若干変な袋小路に取り残されてしまったような気分。後期ブニュエル作品としても相当奇怪な部類だが、一向に飯が用意されない傑作『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』とかに比べると、その奇怪さが目立たないだけにいたたまれない気分になる。
無垢な処女・トリスターナ(カトリーヌ・ドヌーブ)は、登場のシーンからブラブラとハンドバックをぶら下げており、無垢というよりは、危うさを感じさせる存在。彼女が、古めかしい価値観に囚われた貴族・ロペに娘として引き取られると、その旧弊な価値観の庇護の下で窮屈な暮らしを余儀なくされる。その暮らしの一部始終を、亡くなった彼女の母親の遺影 が見つめ続ける。
それとは異なる位相から投げかけられる、トリスターナに向けられる性的なまなざし。ロペの言う「貴族の矜持」とは、身分の高い者が低い者に救いの手を差し伸べる、という支配〜被支配の関係を前提にした「善行」であるが、同様に性的なまなざしも、高いところ(ロペ)から低み(トリスターナ)に対して向けられる。対照的に、ロペの聾唖の息子・サトゥルノからトリスターナへの目線は、後半で彼がトリスターナの部屋の窓に石を投げるシーンにも見られるように、低みから高みへと向けられる。
こうして「抑圧的な振る舞いから、自らの人生を取り戻していく物語」としての前半部。二粒の豆を取り出すシーンや、使用人と分かれ道を選択するシーンなどに、わかりやすく投影されているのであるが、これが果たして後半の急変にいかなる影響を及ぼしたのか。わかりやすく妙な展開を見せるのではなく、じわじわと違和感を醸成していくやり口に、正直困惑した。彼女の急変、それに先立って起こるいくつかの事件、これらをざっくりと捉えているのはやはり序盤から幾度となく登場する、鐘楼のてっぺんで揺れるロペの生首の悪夢。彼の死を望む気持ちと、それに恐れを抱く気持ちが不安定に揺れ動き続けている、その心の動きが正直に投影されたような、そんな不吉なイメージこそが、この物語の不安定さの正体に近いのではないかと考えた。
観たよ『キング・オブ・コント2024』。妻の実家行ってた関係でリアタイ久しぶりに逃したけど、すごかったっすね、今年。隣人(最下位だけどめちゃ良かった)優勝まで可能性としては全然あったんじゃないだろうか。一発目のロングコートダディが凄すぎてその熱で全体が底上げされたというのは確実にあるはず。堂前さんと国ちゃんの時代がもうすぐやってくる、と相変わらず信じていますが、兎の成長も著しかった。あえてきょんを抑えめに使って西村の演技を強調した作りのコットンとか、音とアクションの気持ち良さで押し切ったcacaoとか、ネタバラシしてからの展開が濃厚だったシティホテル3号室も、個人的には好みでした。
とは言え、ラブレターズ。本当に好み次第の二本だったな、と思う。いつも練った構成が楽しいや団との一点差を争う展開の一本目は、行間に厚みのあるコント。「引きこもりの息子を巡って亀裂の生じている家族」という以上に背景を語らないから、そこを観客が想像で補うことで過剰に哀愁が醸し出されていて、実際泣けた。ファイヤーサンダー、ロコディと争った二本目は、「アタリの出た釣竿を引く金髪男性と、バリカンで頭を刈るジュビロ磐田サポーターの丸刈り女」という出鱈目すぎる光景から逆算で作っていったコントだろうと思って爆笑した。二本とも、観客と審査員の想像力を信じていないと作れないネタで、それにきちんと応えることの出来る優秀な審査員だったので勝った。そんな感想を抱きま した。
金曜日にはもう泥のように疲れている状態をどうしたら良いのか。業務に本気すぎるのか。なんか、昼過ぎに、疲れて立ち上がれなくなってた。
元10億円がM-1荒らしまくってるのおもろい。この動画でも最後に鈴木バイダンと出てくるんだけど、ボケが多くて速くて角度がエグい。この人は後は、どうやって見つかるかってだけの話だと思う。
ジョン・カーペンター『パラダイム』。「なーーーにが「パラダイム」だ」ってぐらいパラダイムみのない悪霊話+擬似ゾンビものなんだけど、原題も『Prince of Darkness』って捻りも何にもないので、まあタイトルに関してはどっちでもいいや。古い教会で発見された謎の緑の物体の正体を探るべく集められた学生たちが酷い目に遭うという、こちらも捻りも何も無いあらすじなんだけど、世界観自体は捻りに捻られてる。「闇王子」の出自を覆う幾重もの謎。堕天使的なもの、鏡の世界的なもの、素粒子と反粒子的なもの、外宇宙もの。夢を通じてメッセージを送ってくるその手法。「Brotherhood of Sleep」なる組織。ちょっと初見では結局どういう脅威だったのか全然わからないレベルで入り組んでいて、そのこと自体が楽しい。また、怪異もショッキングで、特に黒人の登場人物の顔芸や、触媒とされた女の爛れた顔、「I Live! I Live! I Live!」と打鍵し続ける女、虫だらけのおばさん、など、かなりの見応えがあった。
YouTubeで1994年の映画版『ストリートファイター』が観れるので、時間に余裕がある人は観ておいた方がいい。ほぼほぼツッコミどころしかない凡庸アクション映画なのに、なんか味があって、そうそう90年代のアクション映画ってこんな感じだったよな、とか。「ベイビーわるきゅーれ エブリデイ』第六話(神回)観た後に観るもんじゃねえわ、とか。
律儀になるべ くみんな出そうと頑張ってる(T. ホークとかディージェイ)ところとか、各人の必殺技をなんとかフィーチャーしようとしているところとか、嫌いにはなれないよね。キャミィが途中、異様な完コピ度でびっくりしたんですが、後で調べたら演じるはカイリー・ミノーグ(ぱっと見でわからんかった)。変なところで豪華なキャスティング。自分の使ってるキャラがしょうもない悪役として出てたら嫌だったろうなと思いました。ケンとか。
ラスボスがまるっきりベガの格好なのに、名前がバイソンだったり、そういった原作とは異なるネーミングには戸惑ったが、そもそも海外版は権利とか色々あってこんな感じになってるみたいです。
ザクザクと仕事を右に左にこなしているうちに一日が終わった。昼は昨日のカレー、夜もそのカレーの残りを食べ、つまり5食分ということ?夜はそれでは足りなかったので、白菜とニラ、さつまいもにぶなしめじと豚肉を、醤油とみりんで煮る、という何なのか全然わからないけどまずいわけがない料理を作った。強いて言うなら、けんちん汁に近い?
ビレ・アウグストは僕にとって少しだけ特別な作家なので、『リスボンに誘われて』も(超つまらなそうなタイトルだが)それなりに襟を正して観た。暗い部屋でジェレミー・アイアンズが一人チェスを指す冒頭のシーンで、主人公・ライムントの途方も無い孤独と退屈を一瞬で説明してしまう。そうした直球の心情描写とおおらかな比喩には派手さはないが、手練を感じてとても心地よい。
橋の上から身を投げようとしていた女性が持っていた本から、リスボン行きのチケットが落ちてくる。そこで駅まで向かうのだが、女性は現れなかったので衝動的に電車に乗ってしまうライムント。帰ればいいのに。電車の中で目を通したそのポルトガル語の本が自分の心情をあまりに言い当てていたことに心奪われてしまったライムントは、リスボンでその本の著者・アマデウのゆかりの人々を訪ねることで、彼の過去を追体験しようとする。その過程で、ポルトガルの独裁政権下でレジスタンスとして生きる人々の物語を知り、その躍動するような人生を照らし合わせて、自分の人生の退屈さを痛感する。
アマデウが著書で語る、「孤独」と「偶然」についての哲学が、人生も終盤に差し掛かったライムントの衝動を説明する。その瞬間、街路を行く自転車と衝突して割れてしまう眼鏡。ライムントは新しい眼鏡を作ろうと眼科へ向かう。そこで作ってもらった新しく軽い眼鏡が彼の視界を再び開いてい くのだが、その環境に拒否反応を示す彼に対して眼科医は言う。「じきに慣れますよ」。
新しい人生は、偶然と衝動に支えられて目の前に開花する。あとは、慣れる。それだけ。
元Black Midi、Geordie Greepの初ソロ作『The New Sound』。Black Midiの作品より良いの、反則だと思う。前評判通り、ポストパンクの枷から逃れ、ジャズ、ファンク、カリプソ、サンバと凄まじい振れ幅のスタイルで、高速マシーン歌謡を構築。根っこには、オールディーズ好きがあると思うんだけど、そんな懐古趣味を反映したノスタルジー溢れるPVも良かった。来日ライブ、観たいな。
めちゃくちゃ美味いカレーを作って、むすこと食べた後、PFFアワード作品を観る。大学時代のサークルの先輩が高校の映画部顧問をやっ てるんだけど、教え子の作品が配信されていたから。その作品『ちあきの変拍子』観てると、もう高校生でこんな達者な映像を撮るんだ、と感心してしまった。イマジナリーフレンドをテーマにした脚本も上手いし、撮り続けて欲しいな。
フィリピンのスラムを映したドキュメンタリー『I AM NOT INVISIBLE』も続けて観たが、これがまた凄くて、人の住むところとは思えないような、地図にも載らない場所に暮らす人々が一様に「幸せ」を疑わない姿勢にドキッとさせられる。今の日本で、あそこまではっきりと「幸せ」と言い切れる人はどれだけいるのだろうか。
この映画はそこで終わりではなく、フィリピン人の祖母との会話シーンで締められる。スラムの人々を「なまけもの」と非難する祖母との対話は緊張感に溢れている。「弱い人」と「強い人」の会話は、どちらが間違ってるとも言い切れない、微妙なスタンスの上を綱渡りし続ける。
「バランスの良い食事…」とか考えてたら、こんな感じになった。サーモンのムニエルに水菜のサラダ、さつまいもの味噌汁。大勝利だと思う。しかも、白米炊く時間とか除けば、15分ぐらいで出来た。成長した。
成長と言えば、今朝観たグリズリーズの新人ダンスコンテストの映像。人前でダンスするなんて、絶対得意なわ けないのに河村。グリズリーズに溶け込んで、プレイの機会を得るためにはなんでもする。それで、ジャの信頼勝ち取ってる。あまりの本気に、ちょっと泣きそうになった。凄すぎるし、襟を正した。ダラダラしているわけにはいかないですね、俺たちも。
ペドロ・アルモドバルの超初期作『セクシリア』を観た。ゲイの皇太子と、色情魔の女が恋に落ちる話。たしかにデコレーションが激しく、LGBTQ+全部詰め込んでいるので、とんでもなく先鋭的なものを見せられているような気分になるが、物語は意外と古風。しかも、その描写にも古臭い偏見(もしくは、ご都合主義か笑えないジョーク)が含まれているので、まだまだ革新的とは言い切れない習作。この次が、マイフェイヴァリット映画のベスト100には入る『バチ当たり修道院の最期』で、真の過激さはここまで待たなくてはいけないのかもしれない。