実家の都合で妻が急遽帰省して、むすこの世話をしなければならないので出社せず家で黙々と作業。怪我の功名的ににすっごい捗ったし、その分すっげえ脳が疲労したので、塾から帰ってきたむすこと二日連続で銭湯。最近、むすこと一緒に鳥貴族キメるのが流行ってるので、一杯飲んでから家でドニー・イェン主演の『導火線 FLASH POINT』を観る。凄まじい格闘シーンが観れるという触れ込みだったので、二人でワクワクしながら再生するも、ずーっと煮え切らないまま。ベトナムの悪い三兄弟が現れるのだが、何をやったのかもわからんし、どれだけ悪いのかもいまいちハッキリしないままなので、物語に入りこめずにいる。なんとなく物語をすっ飛ばしてアクションを見せたいのかなとか思ってたんだけど、肝心のアクションシーンも極端に少ない。期待外れだったな。ファン・ビンビンが相変わらずの美人役で出てて、まるでAIに「美人」とプロンプト食わせて出てきたような美人だな、とか思った。監督はその後『イップマン』シリーズを撮るわけだから、腕の悪い人ではないだろう。
また小松海佑周りの動画を観てしまう。もうこの『タンバリン』なんかは、漫才の一つの完成系だろう。この辺り(歩が比較的きちんと喋り、物語に絡んでいる時期)が銀兵衛が最もポップに寄った時期で、その後ピンになり、アブストラクトを極めていく中、このポップな時期の漫才を発展させていったのが豆鉄砲なのだろう。とか考えていた。Twitterを観たら、11月からイギリスに行き、その前に当の豆鉄砲とか呼んでトークライブやるみたい。
今日もまた猛烈に仕事が進んだので意気揚々と下高井戸シネマに『ソイレント・グリーン』を観に行き、月見湯で締め。締め、と行っても、家に帰ってこれを書いてから、粛々とサウンドコラージュを作り続けるのだけれども。AIの想像している架空のミュージック・コンクレート聞いてみたい。
流石に古さは隠し切れないが、今見てもゴリゴリに面白いディストピア描写が出てきてワクワクする。このポスターにある暴動鎮圧シーンなんてまさにそうで、暴動鎮圧するのにブルドーザーで人海すくい上げるなんて、想像しているより大分荒んでて素晴らしい。フライシャーはこういう過剰な描写に作家性が見える(と言っても数本しか観てない)。ケレン味とリアルさが良いバランスで同居している。
ところで、SFって、こういう「なんか今我々のいるこの世界とあんまり変わらねえなあ」と思わせて、ちょっとしたところでギョッとするぐらい異質な描写、そしてその異質さは、過剰であればあるほど良い、そんな描写が挟み込まれると、良い作品になると思いません?(と、言いつつ、1から10まで異常な酉島伝法とか『ファンタスティック・プラネット』みたいのも魅力的ではありますが…)『ソイレント・グリーン』では、冒頭に殺害される部屋にいた麗しき女性が、主人公の刑事・ソーン(チャールトン・ヘストン)から「家具、か」って言われたり、同居人の老人のことを「お前の部屋にいる本」って呼ばれたりする描写が、かなりドッキリしましたね。地に足の着いた奴隷制というか。豪奢な家で暮らす富裕層と、主人公のような貧乏人の生活に貧富の差を感じていたら、貧乏人の住むアパートの廊下に山のようになって眠る人々というさらに下層の人々がいて驚愕する、みたいな世界が。
何から何まで完璧なのに、肝心なことは何一つ理解できた気がしないのだ。新興宗教の実像を描いたポール・トーマス・アンダーソン監督作。きちんと理解できなかったところも含めて、何度か観てきちんと理解したいと思わせる。それだけの強度を持った作品。
出兵のストレスに起因したものなのか、それとも元々の気質なのかはわからないが、とにかく主人公・フレディ(ホアキン・フェニックス)の人格は決定的に破綻している。いつ、何がきっかけで爆発するのか、さっぱりわからない。「クール」と命名される正体不明の酒を作るが、人死にが出るレベルの劇薬で、ほぼ毒。そんなものを気に入って飲むやつは本人とマスター(フィリッピ・シーモア・ホフマン)しかいないのだが、その構図はフレディ本人とマスターの関係にも似ていて、「クール」同様、フレディを愛するものはほとんど存在しない。
退役した後、職を転々としているフレディは、マスターの娘が結婚式を挙げる豪華客船に向かって、丸めた身体を引きずるように一歩一歩近づいていく。カメラが彼にフォーカスを当てると船がぼやけ、船が映るとフレディの影がぼやける。そんな交わらない世界に、飛び込んでいくフレディ。そこで出会った新興宗教「ザ・コーズ」の教祖であるマスターに心酔し、彼の側近として行動するフレディだが、結局コーズ・メソッドを体得することはできぬまま、ただただ無軌道にその衝動を獣のように発揮するだけ。
海兵仲間と砂浜に作った大きな砂の女を抱き、虚しく眠るフレディは、強烈な性衝動を持て余している。女たちの輪の中で歌い踊るカリスマ=マスターの姿は、彼の中では全裸の女性達の中で滑稽な、不恰好な、不相応であって傲慢な肉体として映っているのだ。カメラ越しに対峙した客を無駄に追い詰めて大喧嘩するかつてのフレディと、にやにやとお追従しながら広報用の写真を撮る現在のフレディに、実は何の違いもない。どこからも拒絶された獣として、カリスマを飲み込もうとしている。
とても激しく仕事した。消耗した。『虎に翼』の土居志央梨さんにちょいやられ気味。NewJeansの話は本当に残念。どうにかならんのか、俺たちに何ができるのか。先ほど一本観た映画はどうにも不発だった。全伏線が噛み合ってないという、悪い意味で奇跡の一本。今週はずっとサウンドコラージュを作っている。1時間程度のもの。
今日の『虎に翼』は、法廷劇。あそ こで女子部の劇を腐している男たち。後年気がついて猛烈に恥ずかしくなるとか、一生気がつかないまま死んでいく、そんな存在にはならないように、とむすこに伝える。あんなに攻撃的なよねさんのことが、徐々に好きになっていて、おそらく次の週では完璧に好きになっているであろうと思う。桜井ユキさんが、真正面から「憧れの美女」を演じているのを、個人的には初めて観たかもしれない。こういうのも新鮮で良い。ピラミッド水野的な、全ての推理を外すお兄ちゃんの良さもわかってきた。
配信終了祭、一部見逃しがあったので、今日はオーランド・ブルーム主演『復讐の十字架』。Filmarksで観ても恐ろしく評価が低かったので驚く。そのせいでちょっと点数上がってるかもしれないけど、いやいや、かなりの傑作だと思いました。完全無音の冒頭から、扇動的なスピーチに合わせて、ゴツンゴツンと槌を振り下ろす激しい音。主人公のマルキー(オーランド・ブルーム)は、古い教会の取り壊し作業に従事している。序盤から、彼の様子のおかしさが激しい「怒り」に起因することが暗示されている。主の住まいを激しく打擲し、その拳をバックに炎が激しく燃え上がる。恋人との情事も、愛を確かめ合うというよりは、怒り任せに肉体を叩きつけているような暴力的な仕草に見え、二人の関係には確かな拠り所が存在しないような所在なさが付き纏っている。
彼のこの「怒り」は何に向けられているのだろうか。30年ぶりにこの街に 戻り、新しい教会に赴任する司祭・ジミーの存在が、彼を苛立たせていることがわかる。柄に名前を彫ったハンマーを振り下ろさんと、彼の教会へ赴くマルキー。「永遠に続くのは、愛や信仰、希望なのです」と説教するジミーの後ろには、キラキラと輝く金の十字架。対照的に「怒りや絶望」から永遠に逃れられずに生きるマルキーが、古い教会のレンガ壁から降ろすキリストの磔刑像とはまるで見違えるよう。
おそろしく古びた十字架を、別の神父に引き渡すために引きずるマルキーは、当然キリストが投影されている。この粗暴で、怒りっぽく、人に心を開くことない男の、どこにキリストを見出せば良いのか。キリストの暗示は他の箇所でもより明確に(より不穏当な形で)提示されるし、そんな投影が行われる理由も丁寧に語られる。この物語の原題は『Romans』。複数回引用される「ローマ人への手紙」の一節において、またしても「炎」が燃えさかるのであった。
もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである
9月になったので、今日からNHKオンデマンドに再入会。『虎に翼』が目当て。早速、第二週まで進めたが、伊藤沙莉(俺曰く”ジャパニーズ・フローレンス・ピュー”)と仲野太賀の 引力が凄まじくてドキドキする。演技のアプローチが似ているような気がして、おそらく現場で話し合ったのであろう。呑気な日常、シリアスな展開から、コメディ演技に切り替わる瞬間の凄まじい瞬発力とリズム感が、カートゥーン的というか。スリリングであると同時に、クオリティに関しては信頼できるので、安心感もある。キャストも上手い人が多いなーとか思ってたけど、もう今、日本の俳優で下手な人ってあんま残ってないのかもね。
第一週にして既に語られるべき物語が大量に掲出されており、最も見過ごしてはいけない「母親の物語」のとば口もさらりと露出する。個人的には、花江さん(森田望智)の今後とか、寅子と優三の関係とか、弟の成長とか、父親の過去など、気になるところが多々ある。第二週からしばらくは、『チア☆ダン』的な展開が続くのでは?とワクワクしてます。
あと、シシ・ヤマザキさんのオープニング。クレジット一切見つけられなかったけど、シグニチャーが強烈すぎて見間違うことはないね。
「見逃し回避祭(配信終了映画を、「観たい/観たくない」「知ってる/知らない」関係なく、問答無用で観ていく祭り)」が9月19日まで一段落したので、前から気になっていた『奈落のマイホーム』を観る。ほんわかマイホームものとしか思えない前半を観ている時に、家族に「この映画、『奈落のマイホーム』って言うんだよ」と説明しただけで色々伝わる親切&直球の邦題。感謝します。劇中でも中途、「エベレストのように、見えるが登れない」と紹介されたソウル中心街の高層ビル 。そうしたビルが古くなり、地下層に水が溜まって空洞となる現象が、原題の「シンクホール」として、韓国では社会問題になっているらしい。新居祝いで大いに酔っ払ったり、呑気に暮らしていると、突然主人公家族の住むマンションが白昼、地中500m下に滑り落ちていく。
この絶望的なディザスターに直面し、生き残った面々が力を合わせて脱出への糸口を探していくという当たり前のストーリーの中に、マンションの階層と重ね合わせられるように格差社会に対する疑義と絶望が滲んでいるのが興味深い。「分相応に生きるとは?」という問いに対して、愚直だが鮮やかな回答を残す佳作。
昨夜は台風の最中、送別会も兼ねた職場の集まりに赴くと、主役がおらずまあ仕方ねえかって感じですね。それでも酒を飲んで、蟻にじゃがりこを撒いて3時間飲み続けた話とか聞いて爆笑したりした。帰って2本映画を観る。
ちょっと外に出るとプールサイドみたいな湿気。今日明日は家に篭るつもり。今日3本映画を観れば、8月中に300本達成するので少し頑張って観る。数十年見逃し続けてきた『フォレスト・ガンプ/一期一会』。こんなに「足」についての映画だとは思わなかった。母親の「神の定めた運命に従う」というキリスト教的な価値観と、それに抗う「風まかせでいこう」という正反対の主張。しかしながら、この世には「健脚」を持たない者もいて、そもそも今生をフラフラと風まかせに漂うことすらままならない。「?」の形に曲がった背骨で歩くのも難しい幼少期のフォレスト(トム・ハンクス)は、「走って!」という愛しのジェニー(ロビン・ライト)の呼びかけに応えるような形で、自らの足を取り戻す。一方で、「足を清潔に保つべし」というモットーを掲げる人物は足を失ってしまう。足を取り戻し、時代の中心をフラフラと駆け抜けていくフォレストと、その影のようにその場に留まることしか出来なかった人物。というように、進歩の歴史として捉えることの出来そうな物語だった。
奇しくも次に観た『村の秘密』なるオーストリア映画も、この「前進する」という主題を取り扱った佳作だった。村の有力者の娘が死体で発見される。村の警官である主人公はこの一件を事故として片付けようとしていたが、隣国からやってきた上司が他殺事件として辣腕を振り始める。面白いのは、主人公が敏腕刑事ではなく、村で生まれ育ったうだつの上がらない警官である点。信じられないぐらい華のない彼が奮闘するも、仕事は出来そうだがとにかく傲慢な上司と、村人との友情の間で板挟みになり苦しむ。
結局はこの男も、村の人間関係にがんじがらめになっていて、それを蔑ろにしたり、村から出ていくという思考すら頭にない。瞑想や東洋哲学に通じていそうな父親の知恵にはすがるが、世捨て人のような生き方の父親とはソリが合わない。そんな彼が、この村の「問題」と向き合う中で、いつの間にか父親との関係を再構築していくこととなる。ミステリーの面白さ以上に、彼が採った選択の鮮やかさに嬉しくなる作品だった。
『フォレスト・ガンプ』の主人公は、「アメリカン・ドリーム」を擬人化したような存在で、それを無垢のものとして捉えるやり方に少し危うさを感じた。彼とは対照的に見えるジェニーの行動も、実は「運命」と「偶然」に導かれたものである点はフォレストと変わりなく、ただただ結果が対照的なだけなのである。『村の秘密』や、一昨日観た『村人』にしても、「田舎に暮らす」という不自由さから、自分なりの解放を目指していくという意味では一続きの、「アメリカン・ドリーム(的なもの)」のオルタナティブな解釈である、と言えるのかもしれない。
昼食にカルボナーラを作ってから、「勉強」と称してむすこと『イコライザー』を観る(二度目。ロバート・マッコール は登場時から最高である)。夜は、昨日途中まで観ていた『クラム』と、『村人』というオーストリア映画を観てから、日活の『何もかも狂ってやがる』を観る。明らかに映画見過ぎで、自分でも良くないと思う。流石に暇って思われる(ガクテンソクも言ってた)。でも、なんとかやりくりしてこれなので許して欲しい。
伝説的漫画家ロバート・クラムを取り上げたドキュメンタリー『クラム』。すごかったな。ちょっと凄すぎた。まずもう、とにかく絵が上手い。信じられないほど。だから、ロバート・クラムという漫画作家の実力と、人気の理由はとてもよくわかる。圧倒的な才能、というのがこの物語の前提となる。
その上で、主に前半で語られるのは、クラムの女性に対するオブセッション。わかりやすく作品に反映された女性嫌悪や強烈な性衝動が、擁護/批判両方の立場から語られる。その時点で立派な取れ高というか、この作家を語るのに十分に豊かな物語を感じていた。
ところが、親兄弟が物語の中心を占める後半で、真にその作家性が浮き彫りになる。自分よりも絵が上手くハンサムだった兄・チャールズは、現在、精神薬を服用しながら母と一緒に実家に引き篭もる人生。弟マキシムは、シュールレアリステックで現実味に欠けた絵画を描きながら、ロバートをも凌駕するぐらいの性衝動を持て余し、釘の上に座して3日かけて紐を飲み込む生活を送っている。進む道が 一歩でもずれていたら、このうちの誰になっていてもおかしくなかった人生。その薄氷のごとき性質に恐ろしくなった。監督は『ゴーストワールド』のテリー・ツワイゴフ。
U-Nextでの配信期限が迫っているというだけの理由で観た、バーバラ・イーダー監督作『村人』(なんてタイトルだ)も、思わぬ掘り出しもの。疎遠だった父の残した不動産を処理するために訪れた故郷の村で、サーカスでの傷害致死事件を目撃する主人公。いわゆる「村もの」だが、その成り立ちは少し重層的で、流石に食傷気味な「カルト宗教が…」みたいなノリとは異なる目線を持った映画だなとちょっと感心。サスペンスとしてもなかなかの出来だし、もやもやの残し方も絶妙だと思う。行動一つ一つが上滑りしているようなところ(例えば、主人公が近所のカフェに通い続ける理由が若干わかりづらかったり、とか、物語に流れている論理と実際の行動に乖離があるように見える箇所が何ヶ所か)もあって、そこをもう少し上手くやってくれればもっと良かったと思うけど、観て損はなかったです。
ガッツリ不具合にハマってしまった日。2〜3時間格闘して、ようやくやっつける。Reactで、useEffect使いまくってるとこういうことになる。予期せぬ副作用。
配信終了間近な『アリス・クリードの失踪』。登場人物はたった三人。誘拐された女と、誘拐犯2人。意外な展開と、三者三様のアホさ加減に軽く引き込まれる。脚本がおかしいのではなく、はっきりと阿呆を描く覚悟が見える。登場人物たちの数々の挑戦がことごとく失敗に終わったり、それどころかより悲惨な状況に陥っていく様を見ていると、これはコメディとして作られているのではないかという気すらしてくる。その体で見ていると、最後の最後まで笑ってはいけない種類の緊張感に満ちていて、しみじみしてくるのだった。
昼過ぎに出社して、夜に会食。勢い余ってマンブルコアの話してしまったの、明らかにやりすぎた。電車の中で短歌の本を一冊読み切る。
帰ってyumbo澁谷さんのチャンネルにアップされていた『荒野の馬鹿息子(原題:Nugget Jim’s Pardner)』を観る。勘当された放蕩息子が、行き当たりばったりの末にナゲット・ジムの下に転がり込む。ナゲット・ジムの娘を演じるアンナ・リトルの凛とした佇まい。「馬鹿息子」のバカっぷりもなかなかマッシブで、激怒し ているジムの横でにこにこと食事を始めるシーンが愉快。汽車に乗る後ろ姿を捉えたショットが抒情的で素晴らしかった。
仕事も終わったので、むすこと『犯罪都市 NO WAY OUT』を観る。有料でだぜ。
いよいよ全く中身がなくなった!とか驚愕してたんだけど、よく考えると新種薬物「ハイパー」を巡る、日本のヤクザも交えた三つ巴の混み入った話だった。それ以上にマブリーが強すぎて、何にも考える気力がなくなったのかもしれない。いつもよりヴィランのヤバさ控えめで、そこがこのシリーズの醍醐味だったと思っていたので少しガッカリしていたんだけど、今回は「優香の旦那」こと青木崇高とのダブルヴィランとのこと。ヤバさはムネくんに任せて、倫理的な問題をイ・ジュニョクが担当するというスタイルというのは理解しつつ、やっぱ常軌を逸したものを感じたかったのは正直なところ。
マブリーの状況も変わり、部署異動になった結果、同僚も一新。相方が『新感染半島 ファイナル・ステージ』のキム・ミンジェで、唐揚げ弁当に唐揚げ追加したみたいな絵面になってた。それよりもびっくりしたのは、ボクシングスタイルの導入。華麗なステップバック決めたところなんて、見事すぎて笑ってしまった。パワー一辺倒(ただし、見た目によらず結構速い)だった前作・前前作の印象から、テクニックも身につけてより最強に近づいたマ兄。見事なフットワークで敵に拳当てると、ほとんどの相手が問答無用でぶっ倒れるのは見てて気持ちよかったし、まあ、最悪、このシリーズはこれさえあれば…。
9月27日公開の『犯罪都市 PUNISHMENT』。「拳 vs IT犯罪」なんて、最高にたぎるじゃん?むすこと観に行こうかな…。
昼は吉祥寺で何冊か本を買い、ライブ用の備品を準備する。楽器屋って、実機があるのが魅力だと思うのに、触らせもしないのってどういうことなんだろう?俺は配線のイメージをしたいのに…。と、DCアダプターのスプリッターだけ買って帰る。
夕方、下高井戸の祭り。友達を見つけたむすこと別れて、焼きそばとか適当に食べてから、近所の居酒屋。美味いんだけどちょっと高い店。高いんだけど美味い店。レモンサワーとモクテルに、焼き野菜の盛り合わせを頼んでサクッと帰るの、大人(の貧乏人)だなと夫婦で自画自賛する。
ミュウ=ミュウ主演の『夜よ、さようなら』を観る。ヒモに支配される娼婦の物語。冒頭で出会いがあり、その直後に働いていた靴屋を勝手に辞めさせられたマリー(ミュウ=ミュウ)=源氏名ソフィ。「もっと稼げる」とかそそのかされ、あまり深く考えずに娼婦の道へ。早い。おめでとう、最短記録だと思った。
かくのごときストーリーテリングの早急さは、しっかり物語全体の解像度も下げている。クズ中のクズ、人類を代表するクズの 決勝レベルであるヒモの男や、娼館に通う客の酷さにフォーカスを当てる一方で、人心の揺らぎには全く無関心。ソフィとマルー(マリア・シュナイダー)がマブダチになるきっかけも過程も随分とおざなりに描かれるので、二人を繋いでいたものも、その後の展開にもいまいち乗り切れない雰囲気になってしまった。
ウラジミール・コスマによる音楽が、美しい画面を妙に安っぽいものにしてしまって、ガワだけ立派な薄っぺらい映像に見えてしまう瞬間が多々あった。ソフィとマルーを暴行した兄弟の顛末(本当に酷すぎて、ミュウ=ミュウが早々にギブアップしてくれて助かった)や、金持ち息子との「プラトニック」な関係、『ソドムの市』的なゲルマン系暴力描写など、見応えのある胸糞エピソードは良かったものの、全体としては少し残念な作品。
現代だったらもっとフェミニズム視点から、女性二人のエンパワメントにフォーカスして語り直せただろうと思うんだけど、徹底的に男目線しかなくて、そこも古臭くて辛かった。ただ、画はいいよね。本当に画は良い。