怒涛の仕事デーですわ、ここから…。とか決意を新たに仕事しながら、夕食に常備菜を導入しようと決めた。今日は、きゅうりにごま油と塩昆布まぶすやつでお茶を濁したけど。初めてカジキマグロ買ってきて、バターソテーにしたら非常に美味く、むすこにも好評だったので無事先発ローテーション入り決定。
ルイス・ブニュエル『哀しみのトリスターナ』。「これは、どういう映画なんだ…?」と(ブニュエルなりに)オーソドックスな恋愛映画を想定して観ていたら、若干変な袋小路に取り残されてしまったような気分。後期ブニュエル作品としても相当奇怪な部類だが、一向に飯が用意されない傑作『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』とかに比べると、その奇怪さが目立たないだけにいたたまれない気分になる。
無垢な処女・トリスターナ(カトリーヌ・ドヌーブ)は、登場のシーンからブラブラとハンドバックをぶら下げており、無垢というよりは、危うさを感じさせる存在。彼女が、古めかしい価値観に囚われた貴族・ロペに娘として引き取られると、その旧弊な価値観の庇護の下で窮屈な暮らしを余儀なくされる。その暮らしの一部始終を、亡くなった彼女の母親の遺影が見つめ続ける。
それとは異なる位相から投げかけられる、トリスターナに向けられる性的なまなざし。ロペの言う「貴族の矜持」とは、身分の高い者が低い者に救いの手を差し伸べる、という支配〜被支配の関係を前提にした「善行」であるが、同様に性的なまなざしも、高いところ(ロペ)から低み(トリスターナ)に対して向けられる。対照的に、ロペの聾唖の息子・サトゥルノからトリスターナへの目線は、後半で彼がトリスターナの部屋の窓に石を投げるシーンにも見られるように、低みから高みへと向けられる。
こうして「抑圧的な振る舞いから、自らの人生を取り戻していく物語」としての前半部。二粒の豆を取り出すシーンや、使用人と分かれ道を選択するシーンなどに、わかりやすく投影されているのであるが、これが果たして後半の急変にいかなる影響を及ぼしたのか。わかりやすく妙な展開を見せるのではなく、じわじわと違和感を醸成していくやり口に、正直困惑した。彼女の急変、それに先立って起こるいくつかの事件、これらをざっくりと捉えているのはやはり序盤から幾度となく登場する、鐘楼のてっぺんで揺れるロペの生首の悪夢。彼の死を望む気持ちと、それに恐れを抱く気持ちが不安定に揺れ動き続けている、その心の動きが正直に投影されたような、そんな不吉なイメージこそが、この物語の不安定さの正体に近いのではないかと考えた。
観たよ『キング・オブ・コント2024』。妻の実家行ってた関係でリアタイ久しぶりに逃したけど、すごかったっすね、今年。隣人(最下位だけどめちゃ良かった)優勝まで可能性としては全然あったんじゃないだろうか。一発目のロングコートダディが凄すぎてその熱で全体が底上げされたというのは確実にあるはず。堂前さんと国ちゃんの時代がもうすぐやってくる、と相変わらず信じていますが、兎の成長も著しかった。あえてきょんを抑えめに使って西村の演技を強調した作りのコットンとか、音とアクションの気持ち良さで押し切ったcacaoとか、ネタバラシしてからの展開が濃厚だったシティホテル3号室も、個人的には好みでした。
とは言え、ラブレターズ。本当に好み次第の二本だったな、と思う。いつも練った構成が楽しいや団との一点差を争う展開の一本目は、行間に厚みのあるコント。「引きこもりの息子を巡って亀裂の生じている家族」という以上に背景を語らないから、そこを観客が想像で補うことで過剰に哀愁が醸し出されていて、実際泣けた。ファイヤーサンダー、ロコディと争った二本目は、「アタリの出た釣竿を引く金髪男性と、バリカンで頭を刈るジュビロ磐田サポーターの丸刈り女」という出鱈目すぎる光景から逆算で作っていったコントだろうと思って爆笑した。二本とも、観客と審査員の想像力を信じていないと作れないネタで、それにきちんと応えることの出来る優秀な審査員だったので勝った。そんな感想を抱きました。
金曜日にはもう泥のように疲れている状態をどうしたら良いのか。業務に本気すぎるのか。なんか、昼過ぎに、疲れて立ち上がれなくなってた。
元10億円がM-1荒らしまくってるのおもろい。この動画でも最後に鈴木バイダンと出てくるんだけど、ボケが多くて速くて角度がエグい。この人は後は、どうやって見つかるかってだけの話だと思う。
ジョン・カーペンター『パラダイム』。「なーーーにが「パラダイム」だ」ってぐらいパラダイムみのない悪霊話+擬似ゾンビものなんだけど、原題も『Prince of Darkness』って捻りも何にもないので、まあタイトルに関してはどっちでもいいや。古い教会で発見された謎の緑の物体の正体を探るべく集められた学生たちが酷い目に遭うという、こちらも捻りも何も無いあらすじなんだけど、世界観自体は捻りに捻られてる。「闇王子」の出自を覆う幾重もの謎。堕天使的なもの、鏡の 世界的なもの、素粒子と反粒子的なもの、外宇宙もの。夢を通じてメッセージを送ってくるその手法。「Brotherhood of Sleep」なる組織。ちょっと初見では結局どういう脅威だったのか全然わからないレベルで入り組んでいて、そのこと自体が楽しい。また、怪異もショッキングで、特に黒人の登場人物の顔芸や、触媒とされた女の爛れた顔、「I Live! I Live! I Live!」と打鍵し続ける女、虫だらけのおばさん、など、かなりの見応えがあった。
YouTubeで1994年の映画版『ストリートファイター』が観れるので、時間に余裕がある人は観ておいた方がいい。ほぼほぼツッコミどころしかない凡庸アクション映画なのに、なんか味があって、そうそう90年代のアクション映画ってこんな感じだったよな、とか。「ベイビーわるきゅーれ エブリデイ』第六話(神回)観た後に観るもんじゃねえわ、とか。
律儀になるべくみんな出そ うと頑張ってる(T. ホークとかディージェイ)ところとか、各人の必殺技をなんとかフィーチャーしようとしているところとか、嫌いにはなれないよね。キャミィが途中、異様な完コピ度でびっくりしたんですが、後で調べたら演じるはカイリー・ミノーグ(ぱっと見でわからんかった)。変なところで豪華なキャスティング。自分の使ってるキャラがしょうもない悪役として出てたら嫌だったろうなと思いました。ケンとか。
ラスボスがまるっきりベガの格好なのに、名前がバイソンだったり、そういった原作とは異なるネーミングには戸惑ったが、そもそも海外版は権利とか色々あってこんな感じになってるみたいです。
ザクザクと仕事を右に左にこなしているうちに一日が終わった。昼は昨日のカレー、夜もそのカレーの残りを食べ、つまり5食分ということ?夜はそれでは足りなかったので、白菜とニラ、さつまいもにぶなしめじと豚肉を、醤油とみりんで煮る、という何なのか全然わからないけどまずいわけがない料理を作った。強いて言うなら、けんちん汁に近い?
ビレ・アウグストは僕にとって少しだけ特別な作家なので、『リスボンに誘われて』も(超つまらなそうなタイトルだが)それなりに襟を正して観た。暗い部屋でジェレミー・アイアンズが一人チェスを指す冒頭のシーンで、主人公・ライムントの途方も無い孤独と退屈を一瞬で説明してしまう。そうした直球の心情描写とおおらかな比喩には派手さはないが、手練を感じてとても心地よい。
橋の上から身を投げようとしていた女性が持っていた本から、リスボン行きのチケットが落ちてくる。そこで駅まで向かうのだが、女性は現れなかったので衝動的に電車に乗ってしまうライムント。帰ればいいのに。電車の中で目を通したそのポルトガル語の本が自分の心情をあまりに言い当てていたことに心奪われてしまったライムントは、リスボンでその本の著者・アマデウのゆかりの人々を訪ねることで、彼の過去を追体験しようとする。その過程で、ポルトガルの独裁政権下でレジスタンスとして生きる人々の物語を知り、その躍動するような人生を照らし合わせて、自分の人生の退屈さを痛感する。
アマデウが著書で語る、「孤独」と「偶然」についての哲学が、人生も終盤に差し掛かったライムントの衝動を説明する。その瞬間、街路を行く自転車と衝突して割れてしまう眼鏡。ライムントは新しい眼鏡を作ろうと眼科へ向かう。そこで作ってもらった新しく軽い眼鏡が彼の視界を再び開いていくのだが、そ の環境に拒否反応を示す彼に対して眼科医は言う。「じきに慣れますよ」。
新しい人生は、偶然と衝動に支えられて目の前に開花する。あとは、慣れる。それだけ。
元Black Midi、Geordie Greepの初ソロ作『The New Sound』。Black Midiの作品より良いの、反則だと思う。前評判通り、ポストパンクの枷から逃れ、ジャズ、ファンク、カリプソ、サンバと凄まじい振れ幅のスタイルで、高速マシーン歌謡を構築。根っこには、オールディーズ好きがあると思うんだけど、そんな懐古趣味を反映したノスタルジー溢れるPVも良かった。来日ライブ、観たいな。
めちゃくちゃ美味いカレーを作って、むすこと食べた後、PFFアワード作品を観る。大学時代のサークルの先輩が高校の映画部顧問をやってるんだけど 、教え子の作品が配信されていたから。その作品『ちあきの変拍子』観てると、もう高校生でこんな達者な映像を撮るんだ、と感心してしまった。イマジナリーフレンドをテーマにした脚本も上手いし、撮り続けて欲しいな。
フィリピンのスラムを映したドキュメンタリー『I AM NOT INVISIBLE』も続けて観たが、これがまた凄くて、人の住むところとは思えないような、地図にも載らない場所に暮らす人々が一様に「幸せ」を疑わない姿勢にドキッとさせられる。今の日本で、あそこまではっきりと「幸せ」と言い切れる人はどれだけいるのだろうか。
この映画はそこで終わりではなく、フィリピン人の祖母との会話シーンで締められる。スラムの人々を「なまけもの」と非難する祖母との対話は緊張感に溢れている。「弱い人」と「強い人」の会話は、どちらが間違ってるとも言い切れない、微妙なスタンスの上を綱渡りし続ける。
「バランスの良い食事…」とか考えてたら、こんな感じになった。サーモンのムニエルに水菜のサラダ、さつまいもの味噌汁。大勝利だと思う。しかも、白米炊く時間とか除けば、15分ぐらいで出来た。成長した。
成長と言えば、今朝観たグリズリーズの新人ダンスコンテストの映像。人前でダンスするなんて、絶対得意なわけないのに河 村。グリズリーズに溶け込んで、プレイの機会を得るためにはなんでもする。それで、ジャの信頼勝ち取ってる。あまりの本気に、ちょっと泣きそうになった。凄すぎるし、襟を正した。ダラダラしているわけにはいかないですね、俺たちも。
ペドロ・アルモドバルの超初期作『セクシリア』を観た。ゲイの皇太子と、色情魔の女が恋に落ちる話。たしかにデコレーションが激しく、LGBTQ+全部詰め込んでいるので、とんでもなく先鋭的なものを見せられているような気分になるが、物語は意外と古風。しかも、その描写にも古臭い偏見(もしくは、ご都合主義か笑えないジョーク)が含まれているので、まだまだ革新的とは言い切れない習作。この次が、マイフェイヴァリット映画のベスト100には入る『バチ当たり修道院の最期』で、真の過激さはここまで待たなくてはいけないのかもしれない。
ひたすら寝たのに全然回復せず、塾に向かうむすこと会話していたら、「野菜が足りないのではないか」とむすこ。確かになーと思って、パクチーサラダと生春巻買ってバクバク食べたら信じられないほどの美味さ。身体が欲していたのだと思う。夜も、水菜とニラ、白菜をたっぷり入れた鍋を食べたので、明日には回復するのではないかと期待している。
ロバート・ダウニー(お父さん)監督作の『パトニー・スウォープ』を観る。何かの間違いで広告制作会社の社長になってしまった黒人=パトニー・スウォープが、荒唐無稽な宣伝をヒットさせてしまう話。ずっとしょうもないギャグを飛ばし続けているので、まともな筋もテーマもあると思って見てはいなかったんだが、突拍子も無いラスト含め、終盤に至って資本主義に対する痛烈な皮肉を感じ取ることは出来た。終始、破壊的な筋運びに妙なグルーヴがあって、サン・ラ『スペース・イズ・ザ・プレイス』や、フライング・ロータス『KUSO』のような、黒人音楽家が作った奇妙奇天烈な映画を観ている時と同じような空気感がある(実際、影響もあるのだろう)。CMの映像だけカラーになるのだが、どれもキッチュで面白かった。
金曜日はむすこも俺も暴力的に疲れていたので、ちょっと休もう、と土曜日。昼過ぎまでダラダラと過ごし、『シ ビル・ウォー アメリカ最後の日』16:30回を観に、TOHOシネマズ新宿へ行く。予告編を観て興味を持ったむすこと、楽しみにしていたアレックス・ガーランドの新作。
劇場の重低音が心底心臓に悪い。あの銃声できちんとビビるように設計された音響だったと思う。遠くに光る銃やミサイルの光は暗闇に光る花火のように美しいのに、その渦中にいると恐怖の対象となる。身もすくむ思い。
内戦に揺れるアメリカで、14ヶ月もの間、表に出ていない大統領の単独インタビューを勝ち取るべく準備しているリー(キルスティン・ダンスト)とジョエル(ヴァグネル・モウラ)の車に、彼女の師匠格であるサミー(スティーヴン・ヘンダーソン)と、リーに憧れる若い女性カメラマン・ジェシー(ケイリー・スピーニー)が乗り込んでくる。彼女たちは、前線であるシャーロッツビルを経由して、ワシントンD.C.を目指す旅の途中で、戦争のもたらす狂気に満ちた出来事に遭遇することになる。
主人公のリーは数々の栄光を手にしてきたベテランの戦場記者だが、報道が人を救うことが出来なかったという実感から来るこの世に対する諦念が、彼女の心を暗く沈んだものとしている。内戦真っ只中の本拠地に乗り込むという、ほとんど自暴自棄とも言えるような無謀な計画を実行してしまうのも、その厭世観が故。クルーそれぞれの感覚はバラバラで、ジョエルは危険に興奮するタイプ。ジェシーは経験不足が故の無謀さで、旅を通じて初 めて真の恐怖を味わうこととなる。
ジェシー・プレモンス(またこいつかよ)の登場するシーンに代表される個々のエピソードは肉付けも素晴らしく、戦争の恐ろしさを十分に感じさせるもので満足。「悲惨な現場を報道の名の下に撮影するべきなのか」という「報道の倫理」問題も、ジェシーの成長物語を通して上手く描けていたと思う。拷問された犠牲者たちとその加害者を、同じ写真に収めようとするリー。そういった彼女の姿勢をジェシーが体得する終盤で、視点が入れ替わっていくのも見事な構図だと思った。
全体が単なるエピソードの積み重ねである点、特に幕の下ろし方を「潔い」と捉える人もいるかもしれないが、俺は物足りなかった。こうした内戦や戦争で政権が変わろうが何しようが、結局何の発展性もないまま、苦しむのは市政の人々であり、為政者や富裕層は変わらず裏側で次の鉱脈を掘り始めている。その邪悪な構造を、もっと大胆に描き切った映画が沢山ある(例えば、ミシェル・フランコ『ニューオーダー』とか)だけに、大統領選を控え、ドナルド・トランプという独善的な支配者の為政を経験したタイムリーな時期のアメリカを舞台にした時に、もっと鮮明に描けるものはあるだろう、と。その辺が「物足りなさ」の正体だったと思う。
仕事して、麻婆豆腐作って、風呂入って、映画を観 たら、力尽きて寝落ちしてしまう金曜日。週末に仕事を持ち越したくないので、無理矢理終わらせて今一息。おつかれさまでした。
U-Nextで『フライド・グリーン・トマト』を観る。母親が生前フェイヴァリットムービーとして挙げていた一本。90年代的な「垢」は目立つ(特にキャシー・ベイカーの演技に)ものの、凄く良い作品であるのは確かなんだけど、進めていくと、母親がこの映画に見ていたものは何だったのか、自分なりに解釈できることがいくつもあって、胸に来るものがあった。どうしても、映画の感想というより、個人的な話になってしまう。
俺たちが生まれる前、父親と出会ってすらいない頃、死後に出てきた手記を読むと、母親には音楽や映画、文学にしか自分の居場所はないと感じていたらしい。他人と話も合わないし、学校から帰ってきては、ストーンズ聴いて映画観る、みたいな生活だったんだと思う。
一次大戦後の牧歌的な時代のアメリカで、強烈な理不尽と戦いながらも、活き活きとした人生を送った二人の女性の物語が、ある男性の死を軸に語られる一方で、その生き様に強烈にインスパイアされて少しだけ人生が変化してしまう女性も描かれる本作。作られたのは91年で、原作小説が87年とのことなので、母親的にはこの映画の現代パートに出てくるキャシー・ベイカーのごとく、強烈にエンパワーメントされたのではないかと想像する。三姉妹の末っ子だった母親の「シスターフッド的な関係性への憧れ」みたいなものも感じて、彼女の人間性についての理解が進んでいく嬉しさとちょっとの寂しさがここにはある。
母親のフェイヴァリットで覚えているもので未見なのは『ハートブルー』(これ観てキアヌファンになった母親。俺は今、ジョン・ウィックファンだよ)、父親の方はペキンパー『ガルシアの首』と、ポール・ニューマン主演の『動く標的』。なんか、げんきそうな作品ばかりだな!
眠い。みんな、木金はどうやってやりすごしているのだ。
久しぶりにバンド会議して、今後のライブをどうするか、少し議論した。大人になっていくとそれなりに人生はタフになっていくが、それでも種火は絶やさずに行こうという気持ち。
クレイグ・ゾベル監督『死の谷間』を観る。「人々の死に絶えた世界で、マーゴット・ロビーと二人きり…」なんていう中学生の妄想でしか起こらなさそうなことが起こっているにも関わらず、キウェテル・イジョフォーは永遠の塩対応。性表現は極めて奥ゆかしく、しかしドアの隙間からちらっと見えるマーゴット・ロビーの脚、みたいな形で確かな手触りとして描かれるので、この世界に生きる僅かな生き残りの三人の間に何らかの化学反応が起こっていることは明らか。もう一人の登場人物であるクリス・パインは、この物語に期待されるセクシーさを発揮し続け、繰り返されるイジョフォーの思わせぶりな塩対応にいじめられているうちに、マーゴット・ロビーの高まりは抑えきれなくなっていく。
「極限状態での三角関係もの」として観ると、本当に奥ゆかしい上に、誰一人として直情に訴えぬまま、事態は静かに進行していく。そもそも、望遠鏡の代わりにライフルのスコープを使っている時点で、ある種の攻撃性が一方から他方へと突きつけられているわけで、「他人を見る」という行為がすなわち「他人を傷つける」という攻撃性とワンセットで括られていることに注目しなければならない。にしても、たった三人で文明を再建せんと頑張る姿にはワクワクさせられた。『コンプライアンス 服従の心理』『ザ・ハント』も大好きだったので、クレイグ・ゾベル監督の作品は俺の趣味に合うのだろう。
ずっと観たかったミア・ハンセン=ラブ『ベルイマン島にて』を観る。重層的で感傷的な俺の観たかったミア・ハンセン=ラブだ。もうこういうタイプの映画は撮るつもりがないのかもな、って思ってた。『未来よ こんにちは』とか『それでも私は生きていく』とは、明確に異なる何かを感じる。とは言っても、それは物語を支えている縦糸と横糸の量が多かった、という物量の問題なのかもしれない。
映画監督のトニー(ティム・ロス)とクリス(ヴィッキー・クリープス)は創作のために、自分たちが愛するベルイマンが暮らし、その傑作の多くで舞台となったフォーレ島にやってくる。アサイヤスとミア・ハンセン=ラブの関係を知っていれば、主人公カップルが何を模しているかは一目瞭然である。知名度にも年齢にも差のあるカップル。物語は徐々にクリスの視点から、家庭を蔑ろにしたベルイマンの人格への違和感、そして「男性は9人の子どもは産めない」といった性差を礎にした社会構造の歪さを顕にしていく。
空港で失くしていたサングラスを買い直し、トニーからの借りを清算する。過去の作品が上映され、地元の観客に講釈するトニーをよそに、学生とドライブしてシャンパンを空けビーチでクラゲを手掴みする。置いてきた娘のことを思い出して寂しくなる。そんないくつかの不安や興奮を通して、クリスの「拷問のような」創作が少しずつ前進する。
この映画の後半は、クリスの構想している未完成の物語で構成されるというのが特殊なところ。ミア・ワシ コウスカとアンデルシュ・ダニエルセン・リーによる再会と別れの物語は、同じ島を舞台にしている。現実と虚構が交錯する物語。クリスが抱えた強烈な違和、強烈な欲望、強烈な恋慕といった現実が物語に反映され、物語は現実に侵食する。その生々しい強度に圧倒されたのか、そもそも興味がないのか、トニーは彼女の創作物と向き合うことを拒否する。
映画の終盤、いくつかの虚構が集結して嵐のように混沌を巻き起こす様は、純粋な創作の現場を彷彿とさせる。純粋であるが故に、苦しみと喜びに満ちた創作の現場よ。劇中劇で描かれる「3日間の物語」のように、ベルイマンの暮らした島で、クリスのイマジネーションが瞬間的に燃え上がる様。それこそが、この映画に焼きついている衝動そのものなのだと理解した。