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M-1グランプリ2022 決勝

日本語を使った言語遊戯であり、同時に最先鋭な実験場でもある漫才は、現代詩とか俳句・短歌と同じような社会的な役割・意義を持ちうると思うんだけど、同時に「笑い」という感情表出を媒介にして、我々の生活や文化に軽やかに浸透する強さがある。しかめっ面を回避した革命。そんな側面が、西洋におけるラップと比較される所以だと思う。

かの立川談志の弟子である志らくによって「日本が変わる」と言わしめた「悪口漫才」ウエストランドの優勝は、同時に、その実演によって、「コンプライアンス社会の息苦しさ(その物言いの正しさと正しくなさも全部ひっくるめて)」に対する革命の突端すら、「分析うぜー」と乱暴に拒絶してしまう。M-1グランプリ2022は、「笑いと日本語と社会」に関する、ギリギリまで張り詰めてしまった緊張感をどのように解釈するか、という問題を内外にいくつも内包している。

そもそも、今年2022年の決勝進出者は、興味深い実験を繰り広げている一方で、視覚的で派手な笑いを実践しているコンビが少ない印象で、そのせいで今年のM-1が盛り上がりの欠けることになってしまったらどうしよう、という不安があった(めちゃくちゃ部外者なのにな)。祈るように観た当日、その不安は杞憂に終わり、やはり今年も予選から続く超ハイレベルな言語遊戯の末の、ただ野放図に消費することに背徳感すら覚える程の面白がある。カベポスター、ダイヤモンド、キュウのような、日本語による遊びにはその実験精神が顕著だったし、真空ジェシカやオズワルド、男性ブランコの、喋りが不条理な像を結ぶような歪んだ世界観、突き詰めるとリズムと音色だけが残るようなヨネダ2000のネタ、全てが素晴らしい。さや香、ロングコートダディ、ウエストランドの最終三組による決戦では、全組が爆発的にウケ、どこが勝ってもおかしくない、という一周回って空虚な多幸感があった。

はっきり言って、決勝に進んだ10組全てが最高のネタを持ってて、デリバリーの技術も信じられないほど高いのだから、後は場の空気とか出順、本人たちにはコントロールしづらい要素が重要になってくる。そうなっちゃうと要するに「運」としか呼べないものしか結果を決めることは出来ないのだから、「意義」だけを突き詰めると、もう、勝敗とかは、どうでも良い。そういう結論になった。

さて。優勝直後に狙いすましたように、公式チャンネルにアップされたウエストランドの漫才。こんだけ相方が笑ってしまう漫才って、アンタッチャブルぐらいしか思い浮かばない。凄すぎて、改めて、これは優勝に相応しい才能だなと深く感心した。反復、暴力、偏見、極論の高速喋りは、これが本人たちや周りが称するように単なる「悪口」という側面もあるけど、それ以上に、これ自体が日本語の使い手による極端に高度な遊びにも見えてくる。「あー、今年も終わってしまったな、M-1」って寂しくなってたけど、まだまだ、見逃している笑いはすぐそこに大量にあるんだな、と嬉しくなりました。

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