カナダ出身の俳優で、映画『マトリックス』や『ジョン・ウィック』シリーズで世界的に有名。類まれな演技力と温厚な性格で知られ、映画界のアイコン的存在。アクション映画から哲学的作品まで幅広く活躍し、ファンからは「世界一優しい俳優」と称されることも多い。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
『バレリーナ:The World of John Wick』/至急耐火性能の高いスクリーンを
自分でもちょっとおかしくなってたと思うんだけど、予告編でも散々観倒した火炎放射器が登場した辺りっすかね、なんかボーッとしちゃって。マジで気絶しかかってたのかもしれん。「スクリーンが許容出来る熱量」みたいのを余裕で越えてしまったような、そんな禁忌の気配がある。
冒頭、お父さんの元気なアクションは見事だが、かつてのジョン・ウィックシリーズにあった醒めた視線はどこへ、熱さという凡庸をまとっていて心配になるものの、もちろんそれは演出。訓練を経たイブ(アナ・デ嬢)は、ジョン・ウィック=キアヌ翁の「あの動き」を身につけて、冷えっ冷えのマシーンのように次から次へと敵をあの世送りにすると、画面が一気に「The World of John Wick」の色味を濃くしていく。この女性が、激しく肉体を傷つけながら、己の未熟さもあり、熱く熱く加熱を繰り返していくその先に、火炎放射器のいななきがある。
反面、訓練や集団生活の描写は必要最低限で、友人や家族の解像度は上がらない(これが、物語的に致命的な欠点となってしまったのは否めない)。それなのに、イブという孤独な人間がきちんと像を結ぶのは、アナ・デの俳優としての力のおかげで、決して眼福などと片付けてはいけない。『2000人の狂人』と『グロリア』を下敷きに、復讐と守護の物語が進行する中で、イブは一度もそれらの実行にいささかの躊躇を見せず、仇に通ずる道を猛進していく。「知識を求めることで、エデンから追放された」。追放も死も厭わない、イブの狂気。
その文学的前進に並走して、「おれ、こんなんが見たいんだけど」のボンクラマインドフル回転(小学生の関与が疑われている)のおもてなしが続き、観たことのないアクションにスクリーンが爆発する。火炎放射器と放水の衝突(リザードンとカメックスのバ トル以来の衝撃)。燃える脚、寒すぎてスケートリンク状になった水面でのつるすべ活劇(マルクス兄弟を彷彿とさせる)、手榴弾オンリーの攻防、皿。首吊り爆散の恐怖に、突撃してくる車体を背にした発砲。そもそも、珍しく引き絵になった光景に、狂ったようなスピードで走り回る車たちの姿が、この世界の狂気を説明する。まさに、法なき世界のストリート。ジョン・ウィックは、いつだって少しだけ、SFなのだ。
『ジョン・ウィック:コンセクエンス』アクション映画の歴史が更新される音
愛犬を殺されたことに端を発したジョン・ウィックの勝ち目のない復讐劇。悉く重ねたバッドチョイスが、雪だるま式に悪化した状況に無謬の人々を巻き込み、彼らは無惨に殺されていく。「ババヤガ」と恐れられたジョン・ウィックの「呪い」は、決定的な運の無さ、決断センスの無さに起因する、彼自身の過失にまつわる問題である。
ジョン・ウィックの物語を観る我々は、この「呪い」に付き合わされている。前作の出来は必ずしも最高とは言えず、あまりの格好良さに笑い転げた(あまりに格好良いと、我々は笑い転げることを知った)伝説の「1」以降、その目減りした魅力は俺たちのドニー・イェンをもってしても補い切れる予感はなく、ただただ旬の過ぎたアーティストを「でも好きだから…」の気持ちで見守ってきた。そんな俺に言われても説得力ないかもしれないが、超えた。俺が間違ってた。『ジョン・ウィック:コンセクエンス』は、「ジョン・ウィックシリーズ」最高傑作です。過剰と覚悟を以て、1の新鮮さを凌駕したのだ。
モロッコの砂漠で主席連合の 首長を射殺するというバッドチョイスを皮切りに、ジョン・ウィックの終わらない過ちは周囲を傷つけていく。コウジ(真田広之)など心を許せる数少ない友人たちを巻き込み、傷つけることを、リナ・サワヤマ演じるアキラから糾弾されると、その言葉が我々の心にモヤを残す。「ジョン・ウィックがいなければ、そもそもこの混乱はなかったのではないか」。
あまりに凄まじいアクション、あまりに凄まじい運動量。インフレを起こしたケレン味が画面上で爆発し、ジョン・ウィックが進む道には屍の山が築かれる。釣り上がる賭金に目が眩んだ輩の死は自業自得だが、それにしたって後始末は必要である。大阪のホテルを廃墟にし、陶酔しきったドイツの舞客たちの前での人殺し、凱旋門を往く車に暴徒が投げつけられると、寺院へ繋がる長い階段を死体が転がり落ちていく。恐ろしいことにあのアクションスター=ドニー・イェンと対等の魅力を発しながら、ジョン・ウィックは片付けられない物語を撒き散らしていく。逃避行を続けるジョン・ウィックが各所に残した、畳まれない風呂敷。この風呂敷を誰が畳むのか。誰が畳むべきなのか。
結果的に、本当に信じがたいことだが、ジョン・ウィックは畳みきった。風呂敷を広げすぎた作品の末路に「畳んだ風を装う」「畳み損ねたことを開き直る」「風呂敷の存在を忘れる、もしくは忘れたふりをする」ことが多いことを考えると、これは、本当にすごいことである。彼のせいで失われた貴重な財産、貴重な命、貴重な絆、各種の報い(コンセクエンス)。これらをこの作品はいくつかの象徴(コンチネンタルホテルや 、ブラザーフッドや、親子愛や、夫婦愛や、犬…)に封じ込め、正しく救ってみせる。正直、この結末は予想もつかなかったし、鮮やかすぎて気絶しそうになった。映画館の俺は、その時点でもう、半分立ち上がっていたのである。