映画という芸術形式を通して表現される物語、視覚言語、そして人間の経験についての探求。記事では吉田大八監督の『敵』における生と死のオブセッション、濱口竜介の『悪は存在しない』の静謐な中に潜む混沌、ヌリ・ビルゲ・ジェイランの『二つの季節しかない村』における権威主義的な心性など、様々な映画作品が批評的に語られている。そこには監督たちの独自の視点と、それを通して浮かび上がる人間の本質や社会構造への洞察が映し出されている。映画は単なる娯楽を超え、私たちの内面や社会を映す鏡として機能している。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
キリル・セレブレニコフ『リモノフ』/芸術的自暴自棄の末路

詩作の才はあれど、ビジネス的な成功には程遠い。そして程遠いのも己のせいである。もっと言えば、要は「あいつ、才能はあるんだけど、なかなか売れないなー」みたいな人、100や200で足りないぐらい見てるはず、みんな。「そんなリモノフ=エディが成功したのは、何故なのでしょう」みたいなサクセスを描くことを明確に拒否するならば、その終着点が「国粋主義」だったことに対峙慄然せざるを得なくなる。国家ボルシェビキ党(観終わってすぐ調べてようやくピンときた。あいつかー、聞いたことあるぞ!)なるものに導かれた、この自暴自棄で行き当たりばったりな旅。最初はキリル・セレブレニコフ、あの『LETO』の監督ですから、英雄譚に仕上げるのでしょう、と思っていたら、そんなバイアスは一切かからぬまま、「横ではなく、縦に切るのよ」と言われたリストカットの作法のように、ウロウロとためらい傷のような人生がダラダラと続いていくように見える。しかし、共感はある。
「俺はここにいない、だが存在している」。リモノフによる印象的なフレーズは前半と後半で二度も引用されるが、「芸術家たる自己はなきものとされ、社会に隷属する時だけ顕になる状況」を指すのであれば、それはまさに陽の目を見ない全てのアーティストに当てはまる表現である。方や、ソ連時代から無能を晒していた詩人仲間は、無能なまま一目置かれる存在となり、彼のそんな政治的な成功を嫌悪する一方で、「老いが怖い」という視点に立て ば結びつきを感じたりもする。
路傍の石、たる自分が、誰からも相手にされないまま、狂態晒して勝ち取った恋人・エレナも、「狂っている」リモノフが故に魅力を感じていて、それは「老い」と無関係のファクターであるとは言い切れぬ。ルー・リードの如くワイルドサイドを闊歩するニューヨーク時代。引き続き何者でもないリモノフと、モデルとしてショービズの世界に蹂躙されるエレナ。二人の日々はまるで魔法がかかったかのように輝きを以て描かれ、それを増幅させる鏡細工はイミテーションなのであるが、その日々を思い出してかつての恋人を妄顕させる時、やはり鏡細工は弱々しい光を乱反射させていて、リモノフの後ろ姿はとても良い寂しい。
自棄の果てに、ニューヨークの街中で腐っていくリモノフ。「どうしてでも、有名になりたいのだ」という妄執は、いよいよ街中で暗殺されたり、街中で暗殺したりを夢想してしまうほどに育ってしまう。しかし結局リモノフは有名になり、顕になった世界の空虚さの中でスターリニズムを求め、極右に走る。その根本には、イミテーションの振る舞いがあって、マスコミから求められる通りに身振りを繰り返す彼に、そのトリックスター的性質を見出してしまう。
実在の人物を扱うということに伴う足枷みたいなものを感じなくはなかった(俺にとってセレブレニコフのベストが未だ『インフル病み〜』なのは、それ故だろう)が、それもベン・ウィショーの素晴らしい演技(ルー・リードに声が似ている)と、監督の作風であるアニメーションとトリッキーな仕掛けによって、ある程度は克服されているように 思えた。しかしながら、そんな効果を差し置いて、この作品の中で、主人公が本当に真摯だった瞬間は、男に抱かれたことを「最高の体験だった。一度はやってみることをおすすめする」と言ったシーンだったのかもしれない。孤独と疎外感。アーティスト誰もが抱える感覚が行き着いた先は、(ヒトラーと同じように!)国粋主義・ファシズムだったという無念さを感じずにはいられなかった。
アリアン・ラ ベド『九⽉と七⽉の姉妹』
九月と七月。たった10ヶ月差で生まれた姉妹セプテンバーとジュライ。どこかぼんやりしていることをネタに「奇人」といじめられるジュライを護り続けるセプテンバーは、その一方で、いささか過干渉なほど、ジュライに愛情を押し付け、忠誠を誓わせる。
「毒親」ならぬ「毒姉」的な所作でジュライを支配するセプテンバーだが、二人の間に悲壮感はなく、インド系のシングルマザーである母親と一緒に踊ったり、動物の鳴き真似したりと楽しそうな日々。しかし雷の鳴り響くある日、クラスメイトからのイジメが一線を超え、怒り狂ったセプテンバーがついに父親の実家への引っ越しを余儀なくされるほどの事件を起こす。起こっている…はずなのだが、稲光と編集がその仔細を観客である我々から隠してしまう。しかし、何故、父親の実家??
一家の引っ越しを経て、姉のセプテンバーによる支配はより過剰となる。原題にもなっている「September says(俺は「セプテンバーは命ずる」と訳したい)」の命に逆らうこと叶わぬジュライ。どこかチグハグと噛み合わない支配・被支配の関係は不穏をまとい、強烈な真実へと観客を導くわけ。
ピュッと吹くセプテンバーの口笛は、禁煙であろうと蒸し続ける母親の電子タバコの蒸気と重ね合わされているのかもしれない。セプテンバーの支配が、家族の何に根差したものなのか。シンプルにトキシックな家族関係を想像していると裏切られてしまう。たった10ヶ月しか離れていない姉妹の遺伝子情報まで、俎上で切り刻まれ ているような生々しい描写。その獰猛さが、例えば台所に侵入する猿の恐怖描写などに現れている。そう、彼女は「アニマル」であった。
決して派手ではない、粗いフィルムの粒子に覆われた画面に、増幅された口元の音。咀嚼に、口笛に、蒸気に、口淫。生理に、ロストバージン。生々しさが物語の周辺を赤く濡らすと、セプテンバーが赤を忌み嫌っていたことを思い出す。
序盤から、音と編集の組み立てが大変上手く、そのテンションが最後まで続く。『サブスタンス』のような過剰さは抑えつつ、シーンが変わるごとに奇妙なリズム、画角、時間が挿入されて、退屈している暇がない。ラストカット、あの人物は、あんな場所で、いったい何を考えていたのか。呆けたまま完全なる虚無を見つめる姿に、心底やられてしまった。

既に何もかもが忘れ去られたであろう「ギリシャの奇妙な波」の文脈を無理矢理持ち出せば、『アッテンバーグ』でも『籠の中の乙女』でも扱われていた「支配・被支配」の関係性というテーマが、本作でも中心的に扱われていることが確認できる。先の二作なんて、本作の監督 であるアリアン・ラベド本人が、その関係性の一翼を担っているのだから、どうしてもその語りの延長線上に考えてしまった。傑作。
団塚唯我『見はらし世代』
冒頭でトラックが横切った時点で、これは目が離せませんぞ、と舌舐めずり。こ・れ・は!どうしますかみなさん!

大事なコンペのために家族旅行を切り上げて帰ることにする、と妻に告げる建築家の夫。「三日間は家族のことだけ考える」という約束は反故にされ、「明日までは子どもたちといて」という妻の願いに、「…ちなみに…今日の夜帰るってのは…行けそう?(どお?)」。まるでブレッソンのような静謐で息詰まる駆け引きから、帰路のトンネルに一続きの灯りで一気にタルコフスキーへ。
何があったのかは知らん。いつの頃からか、日本の俳優たちのクオリティが飛躍的に上がったため、「役者が素晴らしい邦画」を山ほど見るようになった。その、素晴らしい役者たちの、素晴らしい達成一つ一つをこぼさないように、いっぱいに掌を広げたよ うな映画。だから、こぼれ落ちそうなディテールの一つ一つを、私たちも記憶していかなければならない。「あんまり、おやじに、近づきすぎない方が、いいと、思う。よ。」黒崎煌代は、大俳優になるポテンシャルあると思う。よ。
家族を顧みずに仕事に没頭し、ランドスケープデザイナーとして大成功を収めた父。その代償として、家庭は破綻した。胡蝶蘭デリバリーの仕事を、惰性と諦念の中続けている息子。結婚を見据えた同棲を間近に控える娘。疲れ果てたように見える母を含めた四人の関係性と、さらにそれぞれに独自なコミュニティと、そうしたひとつひとつにスポットを当てれば、光は乱反射して別の意味が生まれてくる。
例えばこう。娘は自分の家族の経験もあって、結婚話を進めていくことに不安を感じている。その悩みは「惰性で一緒にいた結果、他の選択肢を失った」というような言い方で協調を強要する彼氏には理解されない。しかし、乱反射した光は、かつて「同棲相手に、何でもやってあげるのは、やめた方がいい」とアドバイスされた過日の些細な瞬間を照射する。しかし、どお?そのアドバイスをした当人が、数日後には、他の人と生きるということに深く悩んでいるのだ。
例えばこう。息子は胡蝶蘭の仕事をしながら、近所の炊き出しに並んで昼食を摂る。確かに薄給という事情はあるだろうが、そもそも食べることに興味があるようにも見えない。ホームレスが並ぶその炊き出しの公園は、再開発のために撤去されるが、彼の父はホームレス排除を目的とした宮下公園再開発で名を成したデザイナーなのだ(あれってどうやってあんな設定 にしたんでしょうね。実在の当人は嫌だろう)。
「うちの会社の女性、みんな髪が短いの、なんでですか?」。尊敬も萎び消え、会社を私物化してるとすら思われているその社長=父は、自分たちのキャパを超えるほど巨きな公共事業の仕事のコンペ参加を決めたことで、スタッフから非難されている。問題はキャパシティのことだけではなく、その再開発が、またしてもホームレス排除に繋がってしまうという社会的な悪影響もスタッフの顔を曇らせる。苦言を呈するスタッフに「ホームレスをどうにかするのは行政の仕事だろ」といなすと、かつての家族旅行の様子が頭をよぎってしまう。
再開発と倫理観の欠落。かくして、渋谷の再開発を明確に批判していながら、この映画は資本主義批判に留まらず、彼の地の若者たちが街を謳歌する姿を映すことで、今のアクチュアルな街の在り方を肯定してみせる。今の世代、それを「見晴らし世代」と呼んだのかもしれない、その世代が、前世代にはわからない形で街を生きる、その姿にノーを突きつける権利を持つものなどいない。そんな大前提がコンテクストの水底から浮かび上がってくるのだ。
家族が再生に向けて動き出すのか。事はそう単純ではなく、父と息子の邂逅(代官山での絶叫と、クビになってからのワンカット退職連鎖描写は、ほかのいくつかのシーンと合わせて、この映画の大いなる達成である)を経ての、ドライブイン。家族四人で最後に食べたのと同じシチュエーションで、黙々と飯を掻っ込み続けて姉を呆れさせる二人の足元に電球は破裂落下すると急転直下の奇跡が顕現し、それを現実逃避 と拒絶する人もいるかもしれないが、俺は膝が震えた。これは、エンターテイメント。もしくは、おとぎ話。
家族の物語がなんとなく、少しだけ前(しかし、前って、どっち?)に進むと、物語は都市=渋谷を俯瞰しはじめ、家族は後景に沈む。果たして、これまで構築してきた物語とは接続困難な展開を以て団円とするが、もうここは「見はらし世代」。代々木公園から原宿に降りてくる辺りを、LUUPに乗って蕎麦の話をする若者のことは我にはわからん。我にはわからんが、そこには文化が、人生が、物語があるのであろう、ね。
映画『爆弾』

そもそも『爆弾』映画化の報に触れたとき、俺の中で「スズキタゴサクは佐藤二朗じゃねえだろ」という激しい違和、もっと宇野祥平とか松浦祐也みたいな、ケンカの弱そうなしょぼくれ演技の人が良いという確信は未だに消えないのだが、それにしても佐藤二朗は巧い。台詞や原作に書かれていない隙間を埋めていく一つ一つの所作に凝縮されたスズキタゴサクが、俺の頭のスズキタゴサクを超えていく。オーバーアクトを抑えつつ、リアリティラインをギリギリ超過してみせる。「ギリこんなやついない」。そんなファンタジーが、作品世界の荒唐無稽と調和して、エンターティメントの強度を裏打ちしている。(更に「類家は、にょぼりげミネ」という確固たるイメージがあり、妻にそれを話したら「言いたいことはわかるが、ビジネス的にそれは無理」と言われる。山田裕貴は素晴らしかった)
一方、これみよがしな説明台詞の応酬に序盤から若干目眩したんだけど、よく考えたらあの 原作を映像で見せるとこういうことになっちゃうのかも。必然。そう思うと、力ある役者がその辺りの「臭み」を巧みに回避している瞬間がたくさんあって熱かった。俺が一つ選ぶとしたら、序盤の駐車場シーンにおける伊藤沙莉の「敬礼ジョーク」に坂東龍汰が返した棒読みワンワード。脚本(≒原作という意味で)の隙間を埋める役者と演出の機転がいたるところで光ってる。
ということで、これ、原作未読で観たら、超興奮するんだろうなーと思って羨ましい。隣のカップルが、上映中も喋り、携帯見るタイプの客で、終演後どう思ってるんだろうなーと耳そばだててたら、女性の方が呆然と「時間経つの忘れてた…」と申していたので、楽しんでくれて何より。反面、ラストにおける、動機の説明などは、あまりにサラッとしていて重みがなく、原作読んでいなかったらちょっとなんのことだったのかわからなかったかもしれないな、とも思いました。

『Mr.ノーバディ2』/家族旅行とか、そういう問題でもねえ気がしてきた
まさに「何者でもなかった男(Mr.ノーバディ)」が、その後何者かになり得たのか、はともかく、あの退屈な一週間を過ごしていた家族はどうなったのか。前作の射影としてのオープニングシークエンスを経て、綺麗に相対化された説明に、理想的な続編の影を見る。退屈で退屈で退屈で仕方のなかったハッチが、自 らの暴力性と家族への愛情に引き裂かれ続けるという奇妙なルーティン。
シリーズで描かれる二種類のハッチとその家族。その一つである「殺し屋の息子」としてのハッチ(そしてハリー。愛してるよRZA)については、今回大量の仄めかし以上のことは描かれていないので、続編に期待する。今回メインで描かれるのは「殺し屋の父、夫」としてのハッチ。思いがけずバラバラに吹き飛んでしまいそうにか弱い絆を深いものとするための再生の機会として、バカンスにやって来た観光地で散々な目に逢う。前作で、一発の打擲に躊躇したせいで失った父としての威厳。しかし、前作での行動を経た本作ではそうした側面がリフレクトして、まさにハッチの抑え切れない暴力性こそが問題となる。怒りを抑えられぬ男=ハッチが、このイシューを如何に解決するのか、が、差し迫った危機(こっちは「怒らせてはいけない奴を怒らせてしまった」系のお決まりの盛り上がるやつ)の背後で密かに解決されるべき問題として蠢いている。

ということで、その解決策の処し方にも満足したし、それが故にラ ストショットも軽やかに、しかし意味深く迫り来る。そこに至る過程は、ひとかけらの躊躇もなく、派手で、下品で、カッコいい。対するヴィランの魅力。今回は登場こそ若干地味に感じたものの、その後のダンスシーンの訳わからなさに、ワイスピ最新作における傑出したサイコパスであったジェイソン・モモアに近いものも感じるほどの素晴らしさで、あの婆さんがシャロン・ストーンであることなど、エンドロールまで全く想像もしてなかった…。シャロン・ストーン?なの?あれ。
真正面からベロシティ高めのアクション映画にして、「実は文芸…?」とか思ってたけど、いやいや全然。最良の部類のげんき映画。自分たちで始め、自分たちで発展させてきた「ジョン・ウィック的映画文法」への矜持もそこかしこに散見できたのが嬉しかったです。いや、簡単なことです。犬、とかな。
『愚か者の身分』/巻き込んでしまった人生について
「期限が切れそうなU-Nextのポイント使わなきゃ!」と、焦って買ってしまったTOHOシネマズのチケット。見事に消費し損ねて、ノーマークだった本作を観てしまった。こういう事故ってある。良い事故でした。

半グレっぽいルックのタクヤ(北村匠海)と、その舎弟?と思われるマモル(林裕太)が、川を流れていくギャルソンのシャツを見つめている。この二人が否応なしに巻き込まれる、戸籍売買に、臓器売買といった裏稼業の世界。そんな底辺の生活を、時系列を組み替えながら進行するこの語り口が特徴的な本作。
幼い顔して、詐欺の片棒担いではしゃいでいるマモルだが、慕っているタクヤの作ったアジの煮付けをぎこちない箸捌きで頬張る姿を見た後だったら、歌舞伎町で盛り上がっている姿に涙腺が緩んでしまう。手法の勝利である。幼いころから暴力の中で過ごし、ボツボツと根性焼きの徴を腕に残し、タクヤが頭を撫でようとしただけで怯えていたマモルが、肩を組んで笑っている。
いずれ彼らにも牙を剥くであろう残酷な世界に、マモルを引きずりこんでしまった責任がタクヤにはある。しかし、そのタクヤをこの世界に引きずり込んだ人間も、いる。世代を跨いで「巻き込んでしまった」人生に対して、どのように責任を取っていくか、というのがこの物語のメインテーマである。負の連鎖が若い世代を蝕んでいく構図はよく見るが、正しい行いが年長世代に影響していくという物語はあまり記憶になかった。
彼らを追い込む佐藤を演じる嶺豪一は、『ニュータウンの青春』の無気力なあいつが?という驚きの怪演。笑顔がこわい。いやだ。その上にいるジョージ(田邊和也)の怖さ、冗談通じなさそうな雰囲気そのものも嫌だが、「この世界、これが天井ではない」という絶望的な確信があって、その変な解像度もいやだ。ただし、このジョージが、現役で格闘技やってるっぽい綾野剛に勝てちゃう時点で、その無根拠な強さがちょっと興醒めに結びついてしまうという難点はあった。ヴィランそのものはそこまで強くなくて、とにかく非道で権力あるだけ設定の方が好きだし、この物語にも合ってる気がする。
ともあれ、台詞や小道具、徹底的に考えて構築していったのがよく分かる丁寧な出来の映画。特に、語尾の変化や、「言わなかったこと」にセンスと工夫を感じさせる。個人的には何より、これをTOHOシネマズ新宿で観れたのが嬉しかった。この映画で描かれた風景は、ゴジラのビルのあのエスカレーターを降りた地点から広がっているから。聖地だよ、聖地。