映画という芸術形式を通して表現される物語、視覚言語、そして人間の経験についての探求。記事では吉田大八監督の『敵』における生と死のオブセッション、濱口竜介の『悪は存在しない』の静謐な中に潜む混沌、ヌリ・ビルゲ・ジェイランの『二つの季節しかない村』における権威主義的な心性など、様々な映画作品が批評的に語られている。そこには監督たちの独自の視点と、それを通して浮かび上がる人間の本質や社会構造への洞察が映し出されている。映画は単なる娯楽を超え、私たちの内面や社会を映す鏡として機能している。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
映画『爆弾』

そもそも『爆弾』映画化の報に触れたとき、俺の中で「スズキタゴサクは佐藤二朗じゃねえだろ」という激しい違和、もっと宇野祥平とか松浦祐也みたいな、ケンカの弱そうなしょぼくれ演技の人が良いという確信は未だに消えないのだが、それにしても佐藤二朗は巧い。台詞や原作に書かれていない隙間を埋めていく一つ一つの所作に凝縮されたスズキタゴサクが、俺の頭のスズキタゴサクを超えていく。オーバーアクトを抑えつつ、リアリティラインをギリギリ超過してみせる。「ギリこんなやついない」。そんなファンタジーが、作品世界の荒唐無稽と調和して、エンターティメントの強度を裏打ちしている。(更に「類家は、にょぼりげミネ」という確固たるイメージがあり、妻にそれを話したら「言いたいことはわかるが、ビジネス的にそれは無理」と言われる。山田裕貴は素晴らしかった)
一方、これみよがしな説明台詞の応酬に序盤から若干目眩したんだけど、よく考えたらあの原作を映像で見せるとこういうことになっちゃうのかも。必然。そう思うと、力ある役者がその辺りの「臭み」を巧みに回避している瞬間がたくさんあって熱かった。俺が一つ選ぶとしたら、序盤の駐車場シーンにおける伊藤沙莉の「敬礼ジョーク」に坂東龍汰が返した棒読みワンワード。脚本(≒原作という意味で)の隙間を埋める役者と演出の機転がいたるところで光ってる。
ということで、これ、原作未読で観たら、超興奮するんだろうなーと思って羨ましい。隣のカップルが、上映中も喋り、携帯見るタイプの客で、終演後どう思ってるんだろうなーと耳そばだててたら、女性の方が呆然と「時間経つの忘れてた…」と申していたので、楽しんでくれて何より。反面、ラストにおける、動機の説明などは、あまりにサラッとしていて重みがなく、原作読んでいなかったらちょっとなんのことだったのかわからなかったかもしれないな、とも思いました。

『Mr.ノーバディ2』/家族旅行とか、そういう問題でもねえ気がしてきた
まさに「何者でもなかった男(Mr.ノーバディ)」が、その後何者かになり得たのか、はともかく、あの退屈な一週間を過ごしていた家族はどうなったのか。前作の射影としてのオープニングシークエンスを経て、綺麗に相対化された説明に、理想的な続編の影を見る。退屈で退屈で退屈で仕方のなかったハッチが、自らの暴力性と家族への愛情に引き裂かれ続けるという奇妙なルーティン。
シリーズで描かれる二種類のハッチとその家族。その一つである「殺し屋の息子」としてのハッチ(そしてハリー。愛してるよRZA)については、今回大量の仄めかし以上のことは描かれていないので、続編に期待する。今回メインで描かれるのは「殺し屋の父、夫」としてのハッチ。思いがけずバラバラに吹き飛んでしまいそうにか弱い絆を深いものとするための再生の機会として、バカンスにやって来た観光地で散々な目に逢う。前作で、一発の打擲に躊躇したせいで失った父としての威厳。 しかし、前作での行動を経た本作ではそうした側面がリフレクトして、まさにハッチの抑え切れない暴力性こそが問題となる。怒りを抑えられぬ男=ハッチが、このイシューを如何に解決するのか、が、差し迫った危機(こっちは「怒らせてはいけない奴を怒らせてしまった」系のお決まりの盛り上がるやつ)の背後で密かに解決されるべき問題として蠢いている。

ということで、その解決策の処し方にも満足したし、それが故にラストショットも軽やかに、しかし意味深く迫り来る。そこに至る過程は、ひとかけらの躊躇もなく、派手で、下品で、カッコいい。対するヴィランの魅力。今回は登場こそ若干地味に感じたものの、その後のダンスシーンの訳わからなさに、ワイスピ最新作における傑出したサイコパスであったジェイソン・モモアに近いものも感じるほどの素晴らしさで、あの婆さんがシャロン・ストーンであることなど、エンドロールまで全く想像もしてなかった…。シャロン・ストーン?なの?あれ。
真正面からベロシティ高めのアクション映画にして、「実は文芸…?」とか思ってたけど、いやいや全然。最良の部類のげんき映画。自分たちで始め、自分たちで発展させてきた「ジョン・ウィック的映画文法」への矜持もそこかしこに散見できたのが嬉しかったです。いや、簡単なことです。犬、とかな。
『愚か者の身分』/巻き込んでしまった人生について
「期限が切れそうなU-Nextのポイント使わなきゃ!」と、焦って買ってしまったTOHOシネマズのチケット。見事に消費し損ねて、ノーマークだった本作を観てしまった。こういう事故ってある。良い事故でした。

半グレっぽいルックのタクヤ(北村匠海)と、その舎弟?と思われるマモル(林裕太)が、川を流れていくギャルソンのシャツを見つめている。この二人が否応なしに巻き込ま れる、戸籍売買に、臓器売買といった裏稼業の世界。そんな底辺の生活を、時系列を組み替えながら進行するこの語り口が特徴的な本作。
幼い顔して、詐欺の片棒担いではしゃいでいるマモルだが、慕っているタクヤの作ったアジの煮付けをぎこちない箸捌きで頬張る姿を見た後だったら、歌舞伎町で盛り上がっている姿に涙腺が緩んでしまう。手法の勝利である。幼いころから暴力の中で過ごし、ボツボツと根性焼きの徴を腕に残し、タクヤが頭を撫でようとしただけで怯えていたマモルが、肩を組んで笑っている。
いずれ彼らにも牙を剥くであろう残酷な世界に、マモルを引きずりこんでしまった責任がタクヤにはある。しかし、そのタクヤをこの世界に引きずり込んだ人間も、いる。世代を跨いで「巻き込んでしまった」人生に対して、どのように責任を取っていくか、というのがこの物語のメインテーマである。負の連鎖が若い世代を蝕んでいく構図はよく見るが、正しい行いが年長世代に影響していくという物語はあまり記憶になかった。
彼らを追い込む佐藤を演じる嶺豪一は、『ニュータウンの青春』の無気力なあいつが?という驚きの怪演。笑顔がこわい。いやだ。その上にいるジョージ(田邊和也)の怖さ、冗談通じなさそうな雰囲気そのものも嫌だが、「この世界、これが天井ではない」という絶望的な確信があって、その変な解像度もいやだ。ただし、このジョージが、現役で格闘技やってるっぽい綾野剛に勝てちゃう時点で、その無根拠な強さがちょっと興醒めに結びついてしまうという難点はあった。ヴィランそのものはそこまで強くなくて、とにかく非道で権力あるだけ設定の方が好きだし、この物語にも合ってる気がする。
ともあれ、台詞や小道具、徹底的に考えて構築していったのがよく分かる丁寧な出来の映画。特に、語尾の変化や、「言わなかったこと」にセンスと工夫を感じさせる。個人的には何より、これをTOHOシネマズ新宿で観れたのが嬉しかった。この映画で描かれた風景は、ゴジラのビルのあのエスカレーターを降りた地点から広がっているから。聖地だよ、聖地。
三宅唱『旅と日々』/何も起こらないことと、豊かな余白の差

つげ義春原作とは知らずにうかうかと。大好きな『海辺の叙景』の最終ページが顕現して声が出そうになった。「いい感じよ…」。大雨の海原が劇中劇であることが判明すると、シム・ウンギョン演じる脚本家は、大学の教室で生徒から感想を求められて「わたしは、才能がない」と回答する。
「言葉に追いつかれて、閉じ込められてしまう」。韓国から来日し、言葉や文化の壁による謎や恐怖を体験していた主 人公も、慣れてくるに従って、言葉に追いつかれてしまう。ヴィトゲンシュタイン的な実在観に等しいものを感じてしまう問い立て。その言語空間=人生から脱出するための一つの手段として、「旅」は存在する。
思えば、『海辺の叙景』原作にはないシーンで、主人公の男性は寂れた浜辺で異国人に話しかけられるのであった。サングラスをとって、「被写体になってくれ」と告げているであろう彼女の持つカメラ。後に荒れ狂うそこで、明日には分かれてしまう女性との逢瀬の昂揚を発散するかの如く、泳ぎ続ける男の姿はそこでも図像として切り取られていたのである。カメラも、眼も、言葉をやすやすと置き去りにしてしまう。
言葉(日本語・韓国語・異国語・方言・お経)と世界(現実・写真・映画)、日常(働くこと・生きること)と死、記録(カメラ)と記憶。いくつかのテーマが交差するように点を結び、至る所で結晶のように散りばめられている。車のフロントガラスにこびりついた小さな汚れ、ネットで保護された崖、水墨画のように黒く伸びる河川に道路、落としたカメラ、地図の外にある目的地、故人の双子の弟、指の包帯、吸えない煙草。言葉にもならないようなモチーフが、柔らかく僕らの世界に対する認識を狭めたり、拡げたり、準備体操のような映画体験につながっていく。
「何も起こらない」と、結論するとそう言わざるを得ないような、静かな映画。しかしながら、その世界に入り込めば入り込むほど、豊かな手触りが実体化していく。余白のある映画体験に、ビリビリと痺れるような興奮が続いた。相変わらず、すごい作 品だと思います。
マシュー・ランキン『ユニバーサル・ランゲージ』/この揺らぎ、これが世界

フランス語とペルシャ語が公用語となった西カナダの街・ウィニペグ。どこかヌリ・ビルゲ・ジェイラン『二つの季節しかない村』の主人公を思い起こさせるような教師が、雪道を登校してくる。街と、そこに生きる人、特に子どもたちへの嫌悪を隠そうとしない男による、長く嫌らしい朝の説教までのわずかな瞬間が、校舎の分厚い壁に遮られる。不幸なことに想定通り説教が始まると、それに少し遅れてカメラに映し出されるのは、一人の可哀想な少年がとぼとぼと登校する姿。悲惨な日常への入り口がかくも淡々と描かれると、次の瞬間、教室の中がカットバック的に映し出され、マルクス髭を生やした少年など、露悪的な教師に負けず劣らず、どこか風変わりな子どもたちがそこにいるのを目撃する。微妙に上滑りした教室の光景が、我々の頭を激しく混乱させている。
七面鳥にメガネを奪われてしまい、そのせいで授業を受けられずにいるかわいそうな同級生を救うために、氷の中に閉じ込められたお金を取り出そうとする姉妹。一瞬、目と耳を疑うほどの珍妙さにめまいを覚えていると、夜の闇にずるずるとメガネを引きずっていく七面鳥の姿が映し出されて、驚いている暇などない。これが映画であることが強烈に印象づけられる。ずるずるずる。そんな素っ頓狂なエピソードに加えて、細かく強烈で扱いづらいギャグが絶え間なく繰り出されるのに、それらが単に「おもしろ」として消費されるだけではなく、物語の中心にピースとしてむしろ有機的に取り込まれていくことで、澱むことなくイキイキと輝き始める。
その文法は、アッバス・キアロスタミ、特に名作『友だちのうちはどこ?』のスタイルを、ほぼオマージュに近いぐらい直截的に模倣している。じくじくと冷静に発狂し始めるキアロスタミ、最高じゃん?加えて、ウェス・アンダーソンや小津安二郎のような、強迫神経症的に整理整頓された構図や、ラドゥ・ジュデの数作を想起させる情報量過剰な図像が目を惹くが、オリジナルに溺れることなく、あくまでスタイルはスタイルとして距離が開けている。というか、意図的に取り入れられた極端に過剰な模倣とコラージュで、スタイルが混乱の極で静止してしまったような、そんな独特のバランス感覚を以て「実在するが現実とはかけ離れたウィニペグ」を描写していると、そこに一人の男が現れる。彼の名はマシュー・ランキン。
ウィニペグ出身ということもあり、「ポスト・ガイ・マディン」と呼ばれていた本作の監督マシュー・ランキン本人が演じるその男は、故郷の西カナダを蔑むような腐った上司の取り仕切るケベックの職場に倦み、かと言って特に今後の展望も持たぬまま帰郷してくる。おじさんの異様な泣き声が鳴り続ける無機質な部屋で退職の挨拶をするマシューと上司の会話を、180度視点を変えたカメラが交互に映し続けるのだが、どちらの壁にも掛かっているポートレイト(ケベック未来連合の党首フランソワ・ルゴーらしい)が見えない支配力を誇示するかのように画面に映り続ける一方で、片方の画角からは隠れている泣き声の主である中年男性は、まるで点滅しているかのように存在が毀損されていて、職場や土地の封建的な空気を示しているかのよう。
とりあえずお母さんに会いに行こう。彼がウィニペグの土地に再び舞い戻ると、そこには七面鳥売りのCM、涙の研究をする女、70年代から置きっぱなしになったスーツケース、水の出ない噴水、誕生日ケーキ売りの男、ティッシュペーパー専門店、針のない時計などの奇妙なものやひと、できごとが目の前に現れ、物語の横軸として彼を混沌の只中に巻き込んでしまう。
イランやカナダの歴史、地政学や言語にも不案内な自分には正確な意味を掴むのは難しいレベルで過剰に詰め込まれた情報。しかしながら、肖像画や写真、広告の文言、店名や学校名などに込められた意味がわからなかったとしても、常識破りではあるが非常にわかりやすくエモーショナルに作られた脚本の妙と、それがもたらす驚くような展開と演 出が観客を圧倒する。その結果、この世界の土台にあるリアリティの確かさまで疑い出す自分を見出すことになる。
例えば、中心に近づくにつれて色を濃くしていくストリートの名称は、土地の記憶が像を結ぶという運動の一部を構成するだろう。マシューが翻弄され、姉妹が奔走するこの物語は、架空のウィニペグを舞台に、意外な形で相互に大きく影響していく。人と人が繋がり、意識が変容し、土地の記憶が蘇る。街に包みこまれた人々の記憶が、今、改めて鮮度を取り戻し、社会に色が戻って来る。何が現実で、何が騙りなのか。そうした揺らぎこそが、想像する生き物としての我々の持つ、最大の豊かさなのでは?とすら思ってしまうのだ。
