映画という芸術形式を通して表現される物語、視覚言語、そして人間の経験についての探求。記事では吉田大八監督の『敵』における生と死のオブセッション、濱口竜介の『悪は存在しない』の静謐な中に潜む混沌、ヌリ・ビルゲ・ジェイランの『二つの季節しかない村』における権威主義的な心性など、様々な映画作品が批評的に語られている。そこには監督たちの独自の視点と、それを通して浮かび上がる人間の本質や社会構造への洞察が映し出されている。映画は単なる娯楽を超え、私たちの内面や社会を映す鏡として機能している。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
『バレリーナ:The World of John Wick』/至急耐火性能の高いスクリーンを
自分でもちょっとおかしくなってたと思うんだけど、予告編でも散々観倒した火炎放射器が登 場した辺りっすかね、なんかボーッとしちゃって。マジで気絶しかかってたのかもしれん。「スクリーンが許容出来る熱量」みたいのを余裕で越えてしまったような、そんな禁忌の気配がある。
冒頭、お父さんの元気なアクションは見事だが、かつてのジョン・ウィックシリーズにあった醒めた視線はどこへ、熱さという凡庸をまとっていて心配になるものの、もちろんそれは演出。訓練を経たイブ(アナ・デ嬢)は、ジョン・ウィック=キアヌ翁の「あの動き」を身につけて、冷えっ冷えのマシーンのように次から次へと敵をあの世送りにすると、画面が一気に「The World of John Wick」の色味を濃くしていく。この女性が、激しく肉体を傷つけながら、己の未熟さもあり、熱く熱く加熱を繰り返していくその先に、火炎放射器のいななきがある。
反面、訓練や集団生活の描写は必要最低限で、友人や家族の解像度は上がらない(これが、物語的に致命的な欠点となってしまったのは否めない)。それなのに、イブという孤独な人間がきちんと像を結ぶのは、アナ・デの俳優としての力のおかげで、決して眼福などと片付けてはいけない。『2000人の狂人』と『グロリア』を下敷きに、復讐と守護の物語が進行する中で、イブは一度もそれらの実行にいささかの躊躇を見せず、仇に通ずる道を猛進していく。「知識を求めることで、エデンから追放された」。追放も死も厭わない、イブの狂気。
その文学的前進に並走して、「おれ、こんなんが見たいんだけど」のボンクラマインドフル回転(小学生の関与が疑われている)のおもてなしが続き、観たことのないアクションにスクリーンが爆発する。火炎放射器と放水の衝突(リザードンとカメックスのバトル以来の衝撃)。燃える脚、寒すぎてスケートリンク状になった水面でのつるすべ活劇(マルクス兄弟を彷彿とさせる)、手榴弾オンリーの攻防、皿。首吊り爆散の恐怖に、突撃してくる車体を背にした発砲。そもそも、珍しく引き絵になった光景に、狂ったようなスピードで走り回る車たちの姿が、この世界の狂気を説明する。まさに、法なき世界のストリート。ジョン・ウィックは、いつだって少しだけ、SFなのだ。
吉田大八監督『敵』/また今日も、生き長らえてしまった
生(性)と死のオブセッションが余生を支配している。来るべきXデーに至るまで。結果として見事、完璧にバタイユ的なモチーフが展開している。斯様に無様で滑稽なのか、我々の人生は!
主人公・渡辺(長塚京三)は、隠居状態の元仏文科大学教授。彼は、最強の名字「渡辺」(©️令和ロマン)を持つだけではなく、「フランス文学」の「大学教授」であったことに、人知れず権威を見出している。趣味がよく、都内に小綺麗な一軒家を持ち、悠々自適な隠居生活を送っていることに感じる誇り。その「誇り」は、表層的な「豊かさ」「慎ましさ」からは隠匿された場所で、下卑た感情と接触している。何度も繰り返し描かれる食事のシーン。朝食で魚を丁寧に焼き、自ら串に刺した鶏肉を卓上の七輪で夕餉に炙っている姿は、まるで「丁寧な生 活」の見本であるが、それは凶器のように美しい元教え子(瀧内公美)の肢体や、老人である彼からすれば年端も行かぬ女学生(河合優実)の無邪気な好奇心や憧れに対して、性的に接続した優雅さなのである。
その優雅な余生を送る老教授・渡辺だが、食べる時と話している時以外は一転、まるで死んでいるように見える。「死のいとこ」である睡眠時、昼のひとときが嘘のように、悶え苦しんで倒れた死体がベットの上で、今日もまた生き長らえてしまった。こうして、死と肉薄する瞬間に、せん妄のような悪夢が現実と見紛うばかりに襲いかかる。亡くなった妻への恋慕を悉く失念し、若い女たちに文字通り「鼻の下を伸ばす」時、生への渇望は蘇り、「敵」=死を前にした老人が醜態を晒していく。そうした、人であるが故の醜さが、知的な人生を蝕み矜持を奪った後に、暗転する。ここに描かれているのは、そんな人生の黄昏である。
仕事帰りに、新宿武蔵野館でショーン・プライス・ウィリアムズ『スイート・イースト 不思議の国のリリアン』を鑑賞。サフディ兄弟のみならず、アレックス・ロス・ペリー作品の撮影をほとんど手がけていることをすっかり忘れていた。タリア・ライダーの魅力が爆発しすぎて、冒頭、鏡の前での歌唱の時点で完全に元取った気分になった。
ライナル・サルネ『エストニアの聖なるカンフーマスター』/世界中から礫を受けても
そもそも、ここに「女」の影はあったのか。革ジャン三人組のカンフーマスター。担いだカセットデッキで再生するブラックサバスをバックに、ソ連国境で大暴れする長髪グラサンの彼らからヌンチャクを授かった主人公。その日からカンフー道の明け暮れ。異様にノリの良いソ連製ディスコミュージックをバックに大暴れするも、返り討ちにあってボコボコに。それから色々あって、カンフーやっててかっこいい修道院にお世話になることに。
マジで、登場人物たちの行動原理が一から十まで理解できず、「今は、何をどうするために何をやってるんだっけ?」と終始迷子。魚屋にタコ買いに行ったら、コンクリ詰めされてるような気分。画がバッキバキに決まってる分、そこに何かあるはずだと信じて開いた扉の向こうには…何もない。しかし、虚無ではない。とにかく芳醇なから騒ぎが120分近くフル尺で繰り広げられるのでたまったもんじゃない。大好きだ。全ての映画、このテイストで作り直してくれ、とおかしな妄想に囚われてしまった。『テネット 』とか、このノリで作ってたらもっと面白かったはずよ。エリザベス・デビッキを缶詰のトマトぶち撒けた上に座らせてさあ…。
世界観の鍵を握るサバスの使われ方は極めて記号的で、実際の劇伴はもっとマヌケな電子音楽の世界。超絶かっこいい(予告編もこっちのノリの方が良かったのに)。クレジット見たらgoatの日野浩志郎さんとDMBQの増子真二さんが担当とのことで、どういうこと??好事家には『痴漢ドワーフ』とか思い出していただければ。特にエンドロールで悶絶したわ。もう決めた。皆が石を投げても、俺は全力で庇うよ。
金曜日は、久しぶりに出社してから、コンセントさんがCINRAやFlatさんと企画した勉強会に出席。CINRA時代にお世話になったエンジニアの方々と久しぶりに会っておしゃべり。飲んで帰りたかったが、むすこが一人待つ家に。iPadでアニメを作っていたむすこに、「寂しかった?」と聞くと「全然」との回答。巣立ちの時は近い。
土曜日は、一年ぶりに叔父さんの家にお邪魔。直近、池松くん仕事だったらしく、その話をちょっと聞いたり、最近観た『ふ・た・り・ぼ・っ・ち』のことを話したりした。どうやったらあんなもんができるのか?と思ったんだが、やっぱ出だしはどうでもいい話だったみたいで、それがなんであんなにエドワード・ヤンに肉薄してしまうんだろうねえ。お年玉で現金掴み取りに挑戦したむすこも大満足で、楽しく飲んで、楽しく帰った。
今日はむすこがなかなか起きてこなかったので、ひとりで『敵』と『ストップモーション』を観に新宿へ。どちらもタナトスに訴えかける傑作だった。
クレイアニメと実写の融合という側面から言うと、レオン&コシーニャ的なものを想像すると肩透かしで、アニメ作家がゴリゴリに追い詰められていくホラー的に状況において、オブセッション的に導入されるアニメーションなので、まあ、めちゃくちゃ怖いしキモい。終演後、後ろの席の女子高生が「ぐろ…」って呟いてた。幸多かれ。
有言実行で、今年は毎日レコーディングしてる。普通にやれば2ヶ月もあれば完成する音源なのだが、今回は手法から吟味しているのでやたら時間かかる。まあ、いつものこと。音の良し悪しを度外視して、アイディアを形にする速度に賭けています。
『どうすればよかったか?』
昼は一時抜け出して、テアトル新宿で話題の『どうすればよかったか?』。今年、映画館初め。統合失調症の娘を抱えて四半世紀を生き抜いた監督の両親。少しずつ歳をとっていく三人を捉えるカメラのこちら側、私たちと同じ方向から家族を見つめている監督もまた、同じように歳をとっていく。その事を意識してしまって、少し気が遠くなった。
とんでもないことが起こることを「爆発」と定義した時、この映 画の中の状況はじっとりと重油が染み込んで重くなり、前にも横にも進めなくなってしまった「事態」。酷く恐ろしい時の流れが描かれるのに、邪悪な人間は存在せず、我々と同じ普通の人が常軌を逸しているという結果だけが延々と映し出され、遠く離れた監督がそのほんの一部を炙り出す。そうした「カリフォルニアから来た娘症候群(突然遠くからやってきた親戚が、家族の問題をめちゃくちゃにしてしまう現象)」的な側面もあり、「どうしたらよかったのか?」という設問は、まずは両親に、次に監督、そして我々観客に、それぞれ投げかけられることとなる。
「どうしたらいいのでしょうね?」という『システムクラッシャー』と近い発問が、タイトルとして投げかけられたところに重要な価値があるし、この映画が多くの耳目を集めた勝因だったろうと思う。個人的には、父親の最後の言葉(当然、そう思っているだろうと感じた)以上に、「論文」に固執した姿に衝撃を受けました。
余談ですが、序盤で映し出された監督の大学時代の写真に、まんじゅう大帝国のツッコミが突然立派な髭を蓄えて現れた時に似た衝撃を感じてしまい、ちょっと笑いました。終始重苦しいこの映画、一服の清涼剤となった。
『エイリアン:ロムルス』
Disney+で、『エイリアン:ロムルス』を視聴して、めでたく今年も映画初め。映画館で見逃したのが悔しい、ただただ楽しくスリリングに観れた。娯楽映画はこうでなきゃなー。
流れ的には1の焼き直しになっていて、これはおそらく意図的。『プロメテウス』以降の起源掘り起こしもの=「マイケル・ファスビンダーの『エイリアン』」も好きだが、この手のドキドキスリラー活劇、vsゼノモーフの『エイリアン』にも続編があって良いと思った。こんなん、いろんなパターンできそうですよね。
『プロメテウス』以降(ちなみに俺は、3と4が未見である)に改めて明らかになった「ウェイランド・ユタニ社」に代表されるディストピアSF的な「道徳ゼロ」空間が、背景として効果的に機能している。前半の肺を病んで死んでしまうぐらい過酷で文字通り「光のない(厚い雲が太陽を隠す)」植民地の描写も心底絶望的で、その強烈な圧で飛び出してしまうような、そんな不可抗力が若者たちをゼノモーフやフェイスハガーたちのたむろする廃墟となった宇宙ステーションへと誘う。この辺の導入も見事。
重要なキャラクターであるところのアンドロイド=アンディと、主人公のレインのつながりの強さが物語の重要な鍵を握っているのだが、アンドロイドは元々ユタニ社のものなので、操作一つで簡単につながりは断ち切られてしまいそうになるという設定の妙がある。ただ、このつながりが、物語の都合に合わせて強度を変えてしまうところが難点かなーと思う。命顧みないレベルのつながりがあると見せかけて、「あれ?そんなにあっさり見捨てていいの?」と不可解に思える主人公のムーブはちょっと気になった。(難点で言うと、編集の結果、とんでもなく意味不明になってしまったシーンがあって、あれ は逆にちょっと笑ったかな。ゼノモーフから銃を持って逃げるシーンの切り替え部分)
とはいえ、何度も何度も観て、もう慣れてしまっているシリーズにおいて、登場シーンでハッとするほど不気味だったり恐ろしく感じられる描写があったのは素晴らしい成果。終盤の展開も、「ユタニ社はマジでこれ、どうするつもりだったんだ…?」と会社の判断にも特大の疑問符が投げかけられるぐらい盛大に歌舞いていて、いやー楽しいパニック映画だった!この路線でもまた一つ!
My Best Contents 2024
今年も残すところあと三分。今年はアウトプット控えめに、とにかく言い訳できないぐらいインプットしてやろうと心に決め、結果450本も映画を観ることができた。それで分かったんですが、この定額配信時代、映画を沢山観るだけなら誰でも出来る。そこから何 を受け取り、何をアウトプットするかが一番重要で、それ以外は本数に何の意味もないです。それが分かってよかった。来年はゴリゴリアウトプットしていきますので、何卒よろしくお願いいたします。
俺デミー賞2024
10. システム・クラッシャー
自らの怒りを制御できない子どもを前にして、大人は如何に振る舞うべきか、我々の倫理観も問われる物語。全ての甘い退路が一つずつ潰れていく絶望感。この作品は、安易に答えを出すことを許してくれない。
https://www.rippingyard.com/post/Ed6U2ECq33oatdLJnUIO
9. フォールガイ
この手の映画が好きだった母親のことも思い出してより感情が昂ってしまったのはあれど、あの頃、こういうイカした映画って沢山あったよなー的錯覚(今も良い映画は沢山あるので)に陥ってしまうぐらいの、突き抜けたアクション快作。
https://www.rippingyard.com/post/9HIiBgQgOMKy9WtVJLqr
8. インフィニティ・プール
ディストピアSF的な設定の妙とか、脚本の良さもあれど、それを上回る暴力的なテンションといいますか、作り手側の過剰な昂りを感じてしまう。現代最強女優の一人、ミア・ゴスがそれをさせている。
https://www.rippingyard.com/post/o8mcsYMKJfaSf3SUvdRG
7. 悪は存在しない
世界の混沌を見かけ上の静謐に押し込める。直前に観たゴダールとも見事にリンクした、淀みの連鎖。この毒に対する観客各自のリアクションが、ラストの解釈の多様に結びついてい くのではないか。
https://www.rippingyard.com/post/ff4zDJvQaG8X6y8axqci
6. 二つの季節しかない村
ヌリ・ビルゲ・ジェイランのことは、半分ギャグ作家だと思ってる。ここまで性格の悪い人間が主人公だと、ここまで場が荒れるのだ、と感心。3時間は敬遠しがちだが、超性格悪い人の滑稽な所作が観れるとなるとこれでも短いのではないか?
https://www.rippingyard.com/post/QxaIPEtXwjw2iHAncx8W
5. 夜明けのすべて
素晴らしい演技、素晴らしい脚本、素晴らしい撮影に加えて、素晴らしい事後鼎談。なんか他に言うことある?客観的に見ると、今年の邦画ナンバーワンだと思う。
https://www.rippingyard.com/post/NRhfrQ8vDQVGkq8C8KRS
4. 墓泥棒と失われた女神
『チャレンジャーズ』に続けて、俺の中でジョシュ・オコナーの名が特別なものになった(『ゴッド・オウン・カントリー』も素晴らしかった)。今後もとんでもない映画を撮り続けるであろうアリーチェ・ロルヴァケルにとっては、通過点なんだろうなあ。
https://www.rippingyard.com/post/PeKiy4Ip6gXien7w3olR
3. 憐れみの3章
若輩者の俺はまだまだ深淵には迫れなかったが、その後、レビュー読んだり、町山さんの解説を聞いていたら、古代ギリシャ悲劇に通じていればもう少し理解は進みそう。こういう世界の広がりを感じさせてくれる作品が好きだ。個人的にはランティモスのベストかなーと思う。
https://www.rippingyard.com/post/yVYIowg4AOyU4OqyO2t9
2. 若武者
どうしても外せなかった一本。ここで展開される邪悪な屁理屈と、シンプルな日常描写は、鋭利な現代日本批評になっていると思うし、それをここまで直感的に面白く料理できるのはかなりの手腕だと改めて思う。
https://www.rippingyard.com/post/C4XFoBPQerLUpTBMg5oZ
1. グレース
圧倒的。視覚的な美しさと、肥溜めの中に咲く花のような瞬間が見事に交差して結びついている。こういう体験をするために、俺は映画を観ている。
https://www.rippingyard.com/post/DJbmrdFrBkk5mRsYkvk5
よく聞いた音楽
youra、Tyla、Caoilfhionn Rose、ナルコレプシン、デキシードの新譜、Geordie Greep、JW Francis、山二つ、fantasy of a broken heart、Bananagun、ALOYSE辺り。中でもベストアルバムは、Being Dead「Eels」。
印象的だった本
レイモンド・カーヴァーや今村夏子を再発見したり、相変わらずJホラーが充実してたりと色々ありましたが、特に印象深かったのは、ナージャ・トロコンニコワ『読書と暴動』とか、野矢茂樹『言語哲学がはじまる』、『優等生は探偵に向かない』辺り。
- 映画
- システム・クラッシャー
- フォールガイ
- インフィニティ・プール
- 悪は存在しない
- 二つの季節しかない村
- 夜明けのすべて
- 墓泥棒と失われた女神
- 憐れみの3章
- 若武者
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- チャレンジャーズ
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- アリーチェ・ロルヴァケル
- ランティモス
- Being Dead
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- youra
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- 読書と暴動
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- 優等生は探偵に向かない