日本の映画監督で、言語、記憶、旅、日常といったテーマを繊細に描く作家。『旅と日々』『夜明けのすべて』など、静謐でありながら深い感情を湛える作品で知られる。余白や何も起こらない日常の中に潜む豊かな感触を映像言語で表現することに長けている。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
三宅唱『旅と日々』/何も起こらないことと、豊かな余白の差

つげ義春原作とは知らずにうかうかと。大好きな『海辺の叙景』の最終ページが顕現して声が出そうになった。「いい感じよ…」。大雨の海原が劇中劇であることが判明すると、シム・ウンギョン演じる脚本家は、大学の教室で生徒から感想を求められて「わたしは、才能がない」と回答する。
「言葉に追いつかれて、閉じ込められてしまう」。韓国から来日し、言葉や文化の壁による謎や恐怖を体験していた主人公も、慣れてくるに従って、言葉に追いつかれてしまう。ヴィトゲンシュタイン的な実在観に等しいものを感じてしまう問い立て。その言語空間=人生から脱出するための一つの手段として、「旅」は存在する。
思えば、『海辺の叙景』原作にはないシーンで、主人公の男性は寂れた浜辺で異国人に話しかけられるのであった。サングラスをとって、「被写体になってくれ」と告げているであろう彼女の持つカメラ。後に荒れ狂うそこで、明日には分かれてしまう女性との逢瀬の昂揚を発散するかの如く、泳ぎ続ける男の姿はそこでも図像として切り取られていたのである。カメラも、眼も、言葉をやすやすと置き去りにしてしまう。
言葉(日本語・韓国語・異国語・方言・お経)と世界(現実・写真・映画)、日常(働くこと・生きること)と死、記録(カメラ)と記憶。いくつかのテーマが交差するように点を結び、至る所で結晶のように散りばめられている。車のフロントガラスにこびりついた小さな汚れ、ネットで保護され た崖、水墨画のように黒く伸びる河川に道路、落としたカメラ、地図の外にある目的地、故人の双子の弟、指の包帯、吸えない煙草。言葉にもならないようなモチーフが、柔らかく僕らの世界に対する認識を狭めたり、拡げたり、準備体操のような映画体験につながっていく。
「何も起こらない」と、結論するとそう言わざるを得ないような、静かな映画。しかしながら、その世界に入り込めば入り込むほど、豊かな手触りが実体化していく。余白のある映画体験に、ビリビリと痺れるような興奮が続いた。相変わらず、すごい作品だと思います。
三宅唱『夜明けのすべて』

この映画については、三宅監督本人と濱口竜介監督、三浦哲哉さんによるこの記事がすべてだと思うので、これ以上言うことがない。レビューや感想、批評については、人の数だけ種類があって良いと思うのだが、自分が言いたかったことはこの鼎談にあることがほとんどすべてであった。松村北斗さん(SixTones)というすごい役者がいることを知って本当に良かった。この鼎談にある通り、上白石萌音の転勤を知らされる場面での演技には目を見張るものがある。実際、スクリーンの前で、目を、見張っていたと思う。ポテチをザーッと口に流し込んでも 、お互い特に気兼ねしないような関係から恋愛は生まれないだろうし、生まれない方が幸せな関係もある。あの事務所の構造が実に映画的である点とか、エンドロールのボールの行方についても言及してあって、当事者がここまで語ってくれるのであればこんなにありがたいことはないと思った。
ドラマ的に派手なことは何も起こらない本作の中で、圧倒的に抒情的な感動が呼び起こされるプラネタリウムのシーン。ここの語りで、この物語で行われたあらゆる種類の行動と、それによって引き起こされた様々な感情が、循環してまた異なる何かの感情や行動に結びついていくという連関を図らずも示唆してしまうという端正な作りに魅了されてしまったのでした。