日本映画界の鬼才として知られる映画監督。代表作『ハッピーアワー』『偶然と想像』に続き、『悪は存在しない』では自然と人間の関係性を描く。長回しと自然光を活かした映像美、日常の中に潜む深遠なテーマ性が特徴。本作では田舎の村とグランピング施設建設という構図を通して、「善悪の二項対立」を超えた複雑な問題提起を行う。ズビャギンツェフやゴダールの影響も見られる作風で、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞など国際的評価も高い。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
濱口竜介『悪は存在しない』/水は低きに流れる
手負いの鹿は襲ってくるかもしれない。子連れならなおさら。
ほとんどが八ヶ岳の麓で撮影されている本作。妻が八ヶ岳出身のため、それこそ色んな話を聞く。地元民と 移住者の話、開発業者やサービス事業者にまつわる話。そんな自然豊かな村に、グランピング施設を建設しようと目論む企業がやってくる、というあらすじを聞いた時に感じた、いわゆる「田舎vs都会」的なクリシェかなと思うと、全くそうではない。冒頭の長回しから連想したズビャギンツェフ、特に『裁かれるは善人のみ』的、暴力的な物語を予想していても、その予想は軽やかに否定されてしまう。むしろ、HBO『ザ・カース』的な、「善人であるという偏見」についての物語ではないか。人を襲わない鹿。この鹿が、人を襲うことはあるのだとしたら。
主人公の巧は、薪を割り、水を汲んでいると、公民館に預けている一人娘の花(はな)を迎えに行くのを忘れてしまう。慌てて森の中で追いつくと、帰り道すがら、森の植物や、動物の死骸や足跡を観ながら、二人の時間をゆっくりと過ごしている。果たして、巧の存在を自然と共生する純粋な善人として処理して良いのだろうか。そんなことはない。彼も一方で立派に収奪しているし、そのことに自覚的である。
グランピング施設の建設話は、唐突に持ち込まれる。区長とうどん屋の夫妻、地元の若者といったいつものメンツとしめし合わせてその説明会に参加すると、そもそも芸能事務所がコンサルに言われて企画したコロナ禍における補助金目当ての事業であることが知らされる。その場で計画のずさんさが明らかになると、場は混乱して一旦解散となる。客観的に見れば、巧の取り付く島もないぶっきらぼうさや、金髪の若者・立樹の攻撃的な姿勢だっ て、決して褒められるようなようなものではない。なにせ、対話は成立していない。対話を成り立たせようと尽力していたのは、うどん屋の女性や、区長、そして会社側の黛だけであった。
たまたま前日に観た『アルファヴィル』の中で、「悪意は存在しない」という一節が差し込まれていて、本作のあまりに率直なゴダールのスタイル模倣だけではなく、重要な意味の収奪があると感じた。段になった排水路を凄まじい勢いで流れていく雪解け水。鹿の水飲み場でトゲに刺さって流れた血。何らかの問題が起こる時、それは何か邪悪な存在が悪意を以てそれを為すのではなく、それを悪とも思えないようなちっぽけな問題の積み重ねが、大きな問題となってしまう。上流で起こした間違いは、下流に溜まって、大きな問題となる。だから、上流に生きるものには、責任が発生する。
芸能事務所のマネージャーだったはずが、何の因果かグランピング施設の担当者となってしまった「高橋」は、都会に住む自分たちの似姿である。マッチングアプリの成果に一喜一憂し、無責任で横暴な計画に正義感から立腹し、しかしながら上司やコンサルには物申せず、後輩には無責任に退職を勧め、自らの身の振り方も考えてしまう中年男性。それは、おじさんであろうと、新卒の女の子であろうと関係ない。上流の汚れで汚れてしまった身体を、より下流で洗い流そうとする者たちすべての代弁者である。そこで落とした汚れは、どこに行くのか。
「追い出された鹿は、どこに行くんだ」。終始ぶっきらぼうな口調で真意を掴み難い巧の言葉が車内 に響き、タバコの煙の中で皆が沈黙してしまう。汚れを含んだ水が、下流で毒と化す。最高に不可解なラストの解釈は観客の数だけ存在している。
濱口竜介『偶然と想像』/取り急ぎ、俺は佐々木を火炙りに処す
濱口竜介監督による文体練習のようなオムニバス作品。偶然が織りなしたパンチの強い三角関係『魔法(よりもっと不確か)』。浮世離れした大学教授を誘惑しようと、彼が芥川賞を獲った作品の淫らな一節を読み上げる女性を描いた『扉は開けたままで』。インターネットを失った世界で、忘れられない昔の恋人と再会する『もう⼀度』。
どれも「偶然」と「想像」としか言いようのないファンタジーがそこにある。そしてそれらは、SF的な導入から開始する最終話のみならず、どこか幻想的だったり、 不思議な状況を以て顕現する。ホン・サンスのようなバカズーム(特に一話目はほとんどホン・サンスのパロディのような体を成している)、密室的な空間でのストローブ=ユイレの如き棒読み演劇的会話、テレビに映り込む在り得たはずの自分、オフビートコメディのようなどんでん返し。最後のなんて、映画館は爆笑に包まれてたんだけど、俺は猛烈に感動してしまって笑いの波に乗り損ねてしまった。
オムニバス、と断っているのだから、このそれぞれはどれも如何にも断片的で、通底するものは「偶然」と「想像」、わずかしかない。幾多もの点をつなぎ合わせて、何らかの意味を浮かび上がらせる星座のような見方をしても、到底そこに「正しさ」を見出すことなど出来なかった。正解のない物語。冷たい現実も、間抜けな関係も、全部がなんとなく存在していて、それで良いじゃねえか、と思う。