突然遠くからやってきた親戚が、家族の問題をめちゃくちゃにしてしまう現象を指す言葉。一見善意で介入してくる第三者が、かえって既存の関係性やバランスを破綻させてしまうという皮肉な状況を表している。 家族や共同体の中で長年かけて築かれてきた微妙な均衡は、外部からの「正論」や「善意」によって簡単に崩壊する。この症候群は、問題解決を試みる者が新たな問題の源泉となってしまう逆説的な構造を浮き彫りにする。 映画『どうすればよかったか?』では、統合失調症の娘を抱える家族を撮影する監督自身が、この症候群の体現者として機能している。カメラという装置を通じて家族の内部に侵入し、その過程で新たな問題を生み出していく。善意の介入が持つ暴力性と、観察者としての立場の曖昧さを問い直す概念として注目される。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
有言実行で、今年は毎日レコーディングしてる。普通にやれば2ヶ月もあれば完成する音源なのだが、今回は手法から吟味しているのでやたら時間かかる。まあ、いつものこと。音の良し悪しを度外視して、アイディアを形にする速度に賭けています。
『どうすればよかったか?』
昼は一時抜け出して、テアトル新宿で話題の『どうすればよかったか?』。今年、映画館初め。統合失調症の娘を抱えて四半世紀を生き抜いた監督の両親。少しずつ歳をとっていく三人を捉えるカメラのこちら側、私たちと同じ方向から家族を見つめている監督もまた、同じように歳をとっていく。その事を意識してしまって、少し気が遠くなった。
とんでもないことが起こることを「爆発」と定義した時、この映画の中の状況はじっとりと重油が染み込んで重くなり、前にも横にも進めなくなってしまった「事態」。酷く恐ろしい時の流れが描かれるのに、邪悪な人間は存在せず、我々と同じ普通の人が常軌を逸しているという結果だけが延々と映し出され、遠く離れた監督がそのほんの一部を炙り出す。そうした「カリフォルニアから来た娘症候群(突然遠くからやってきた親戚が、家族の問題をめちゃくちゃにしてしまう現象)」的な側面もあり、「どうしたらよかったのか?」という設問は、まずは両親に、次に監督、そして我々観客に、それぞれ投げかけられることとなる。
「どうしたらいいのでしょうね?」という『システムクラッシャー』と近い発問が、タイトルとして投げかけられたとこ ろに重要な価値があるし、この映画が多くの耳目を集めた勝因だったろうと思う。個人的には、父親の最後の言葉(当然、そう思っているだろうと感じた)以上に、「論文」に固執した姿に衝撃を受けました。
余談ですが、序盤で映し出された監督の大学時代の写真に、まんじゅう大帝国のツッコミが突然立派な髭を蓄えて現れた時に似た衝撃を感じてしまい、ちょっと笑いました。終始重苦しいこの映画、一服の清涼剤となった。