日常の小さな挫折や苦悩を描く現代アートの一側面。アーティストの内面と社会との摩擦を繊細に描写し、不完全でありながらも前に進もうとする人間の姿を映し出す。個展を通じて自己表現と承認を模索する主人公の姿は、創造的な生き方の複雑さと脆さを象徴している。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
ケリー・ライカート『ショーイング・アップ』/クソみたいな日常は、それでも続く
個展の準備で忙しいのに、シャワーからお湯が出ない。猫が殺しかけた鳩を隣人が保護したのに、その世話は自分に押し付けてくる。小さなストレスに囲まれて死にそうな気分になっていると、追い 打ちをかけるように嫌なことばかりが続く。
シャワーの修理とか鳩の世話とか、必要なことは何もやってくれない隣人ジョーは、セルフィッシュで付き合いづらいが、地元では個展を同時に2つも抱えている注目株のアーティスト。方や、社会不適合の兄、怠惰な居候にたかられている父、家族の問題を抱える主人公リジーも、小さな地元のギャラリーでの個展を控え、陶芸作品の制作に追われているが、注目度には差がある。
作品は焦げ、シャワーはいつまでも使えず、鳩が気になっている。追い込み、追い込まれ、目の下には隈を作ったままボロボロの体で帰宅すると、壊れたシャワーは放置しているジョーが自宅に友人を招いてパーティーを開いている。鳩を思わせる小ぶりな鳥のローストを運ぶジョー。イライラを募らせ、厭なメッセージを残してしまうリジーも、不愉快と疲労に押しつぶされて酷い人間に見える。
ランドアートについて語る兄が言うように、「声をあげても、人々は耳を傾けようとしない」。兄や、リジーの孤独とストレスは、こうして爆発しそうに見える。
個展の開催日がやってくる。ジョーのそれより規模も小さく注目度も低いが、それでも確かに個展は開催されていて、そこには、少しだけ誇らしげで柔らかくなったリジーの顔が見える。世界は相変わらずだが、陶芸家の父は褒めてくれるし、鳩の折れた翼も癒えるし、友だちは顔を見せてくれる。日常はクソのままだけど、それでも人は生きていく。
ケリー・ライカート監督作品。彼女の作品ではおなじみミッシェル・ウィリアムズが主演。時期は同じはずなのに『フェイブルマンズ』とはまるで別人で、昼食を摂りながらあれだけ弛緩した顔を出来るのは本当に良い役者。音楽をEthan Roseが担当していたのも良かった。