ポルトガルの映画作家であり、独特の映像美と詩的な表現で知られる。彼女の作品は、存在と不在、時間と空間の境界を曖昧にし、登場人物の内面や感情を繊細に描き出す。セクシュアリティや社会的抑圧、記憶の断片といったテーマを、詩的かつ実験的な手法で探求する映画監督として高く評価されている。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
ニナ・メンケス『マグダレーナ・ヴィラガ』/不在と実在の狭間でおばけが…
主人公の娼婦・アイダ、別名「マグダレーナ・ヴィラガ(禁欲のマグダラ)」は、殺人の罪で投獄される。しかし、直後に彼女は独りごちる。「私は、ここにいない」。
犯罪映画を模して作られたと思わしき本作。当然(当然?)、一度観た限りの現在、本編の内容を完全に理解できたとは言い難い。素晴らしい映像美と画角に惚れ惚れしているうちにいつの間にか流れているエンドロールを確認すると、各種詩篇にインスピレーションを受けて作られたとのこと。なるほどそうした言葉の端々が寄せ木のように集い、一つの物語を成していることが分かる。故に、一つ一つの言葉〜物語という幹の歪な樹皮〜にフォーカスしたところで、全体像など一向に見えてこないだろう。
言葉とインプロヴァイズすることで、いつの間にかポロッと「テーマ」のようなものがこぼれ落ちてしまう瞬間がある。思わず表出してしまった「傷口」のようなものがパカッと口を開けている。その傷は、人によって色んな形を取るだろう。
アイダは「不在」を語っている。彼女の自己認識は、常に「不在」と「実在」の中間の淡いを行き来し続ける。そういう意味で、彼女はまるで空間も時間も超越した幽霊のように見える。幽霊はその存在を定着させることは出来ないまま、色んな空間、色んな時間に、同時に存在しており、言葉の切れ端がその存在の形式を語り続ける。
時と場所を隔てて、存在の中間地点で不安定に揺れ動くアイダ。例えば、カメラに背を向けてベッドに横たわる「姉妹」のクレアが、アイダに言う「椅子を見て」。アイダのすぐ隣に椅子がある。アイダは応える「椅子はない」。いくつかのシーンを隔ててまたベッドの部屋に戻ると、今度はその椅子に座っているアイダ。この時、「椅子はない」と応えたアイダと、その椅子に座るアイダは、異なる実在を示しているのかもしれない。
アケルマンとは別の形で、肉欲にまつわる忘我の在り方を提示してみせるニナ・メンケス。信じられないほど即物的な娼婦・アイダの性行為の最中、エンドロールではすべて「ヨハネ」と名付けられることで名すら匿されている男性たちは、ありえないぐらい彼女の「顔」に接近するカメラによって、存在を消されている。よりによって「今、この時」に実在してしまうこと。それを恥じるように、ただ一人残されたアイダは忘我している。
行為と、殺人と、投獄と。物語は、時制を超えて、何度も何度も彼女の実在と不在を語り続けている。