イタリアの映画監督、詩人、作家。前衛的で挑戦的な作品で知られ、社会批評的な視点を持つ芸術家。『アッカトーネ』『テオレマ』など、既存の価値観に挑戦する作品を多く制作。性、階級、宗教などのテーマを鋭く掘り下げ、当時の社会に大きな衝撃を与えた芸術家として評価されている。
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フェデリコ・フェリーニ『カビリアの夜』/無垢を照らし出す光
観終わって溜息が出た。すごい映画だった。なんにせよジュリエッタ・マシーナを見る映画ではある。恋人に突き飛ばされて川で溺れ死にかけた冒頭、助けてくれた人たちに感謝の言葉も言わずに悪態をつきまくる娼婦カビリア(ジュリエッタ・マシーナ)は、とても愛されるようなキャラクターには見えない。ところが、大物俳優との思いがけない逢瀬で彼に引かれようとマンボを踊る無邪気な彼女。都はるみみたいな顔をして、チャップリンのような愛嬌を見せる彼女を見ていると、いつの間にかその躍動する生命に魅せられている。
脚本でパゾリーニも関わっており、序盤の娼婦たちのシーンは、なるほど『アッカトーネ』(本作の四年後、1961年に公開)で観た、あの「ストリートの夜」なのだ、と思った。猥雑で下品なローマ。そうすると、この映画の序盤は一種の「ストリートムービー」であるとも言える。イタリア〜ローマの地理には疎いが、おそらく貧困に喘ぐ田舎の娼婦が、都会の洗練された人々に馬鹿にされ、笑われ、騙される「ストリートの物語」である。
例えストリートを離れていたとしても、始終しかめ面、下品で粗野な彼女が、不意をつかれたり本人が望んでもいない形で、思いもがけずその「純真無垢」を曝け出す。神も、金も、自分を助けてくれない。あまりに絶望的な展開に鬱々と落ち込みそうな瞬間に、それでも生命の輝きが空間を満たしている。その瞬間の美しさは何物にも変え難いものがあるのだ。
テオレマ
工場を経営する父パオロ(マッシモ・ジロッティ)と母ルチーア(シルヴァーナ・マンガーノ)、その息子ピエトロと妹のオデッタ(アンヌ・ヴィアゼムスキー)。それに女中エミリア(ラウラ・ベッティ)を加えた裕福な5人家族の下に、テレンス・スタンプ演じる「客」がやってくる。例外的に美しく「並外れた人物」であるこの「客」は、家族の一人一人と秘密の交わりを持つと、来たとき同様、唐突に去り、残された家族5人の運命は崩壊の道へと進んでいく。
多くがいわゆる「プチ・ブル」と呼ばれる「中流階級」に取り込まれていく一方で、資本主義の充実も、共産主義者たちの革命の意志も骨抜きにされていく社会状況を背景に、満ち足りていた一家の下に不意に訪れ、来たときと同じような唐突さで帰っていった「客」とは一体何だったのか。変革の苗を植え付けていく「預言者」キリストのモティーフ、もしくは「饗宴」でおおらかに語られるエロス=愛。プラスティック化したようなヨーロッ パ的で圧倒的な美しさを持ったこの若者が抱えるのは、無闇に表出する豊かさというより、むしろその欠落。周囲の人たちを引きずり込んでいく、不可避の災難であるかの如き「大きな空虚」がそこにある。
数多くの物語類型、例えばギリシア神話や聖書(澁澤龍彦は『スクリーンの夢魔』で、この物語に旧約聖書〜創世記のイメージを見ていた)のパロディを思わせる深淵さを保ちながら、その契機を「客」の持つ性的な魅力に負うというナンセンスさが、斯様に広がりを見せる世界観を持つ現代の寓話というニュアンスを鮮烈なものにしている。古くは「ハーメルンの笛吹き男」や、映画ではタル・ベーラが『サタンタンゴ』『ヴェルクマイスター・ハーモニー』で同様のモティーフを扱っているが、本作に特筆されるべきなのはナンセンスさ。恐怖の物語でもあり、エロティックな寓話でもあると同時に、ブラックコメディとも言える真顔で毒を飲み下すような破壊的なユーモアが、本作を唯一無二の体験に昇華していると思う。
パゾリーニ監督の代表作の一つ。エンリオ・モリコーネの不吉な旋律に幕を開け、シルヴァーナ・マンガーノの肢体が放つアンニュイさや、繭に籠もるかの如く硬直するアンヌ・ヴィアゼムスキー、前衛的な創作にのめり込んでいくピエトロとそれを見守るフランシス・ベーコンの絵画など、シンプルに絵的な、音楽的な、演出的な興奮に満ちた1時間38分。特に序盤、庭先の「股間」に吸い寄せられていくラウラ・ベッティの抑圧された目線と、開眼した後半で見せる奇跡のような末路には、何度観ても新鮮な驚きに打ちのめされてしまう。2022年の今、改めて劇場で鑑賞できる喜びは大きい、長らく不動の人生ベスト映画。