1970年代初期のロバート・アルトマン監督による実験的な心理サスペンス映画。現実と幻想の境界線が曖昧になりながら、主人公の内なる不安や精神の分裂を描く。不気味な音楽と、不自然な電話や人物の入れ替わりなどを通じて、観る者の神経を逆撫でするような独特の世界観を構築している。映画における意識の境界と、自己の分裂を鋭く描き出した作品。
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『ロバート・アルトマンのイメージズ』/にじり寄る己という名の幻影
突然混線したかのように、適当に聞き流していた長話の友人からの電話が、夫が浮気をしているという密告の電話に切り替わる。不安な妻を追い詰めているように思えるほど、家には不自然なほど大量の電話があり、その受話器一 つ一つを取り上げて放置しておくと、帰宅した夫は訝しげ。それでも安心した妻と抱擁を交わしていた夫は、気がつくと俺達の知らない中年のおっさんに変わっている。
さっきまで触れていた人が、別の人に入れ替わる。写真の人物が、突然現れる。なかったものがある。いなかった人がいる。殺した人間が生きている。鏡や窓が映す自分の影も複製のように存在感を保っているので、放っておくと、大量の幻影を前に現実との境が判別不能になってくる。ベルイマン作品のようなジトッと湿った雰囲気の中、主人公はそこに飲まれているかと思うと、次の瞬間にはその状況を不自然なほど完全に理解しており、自らが殺した男の死体がある現場に子どもを案内したりして、この状況が現実ではないということを受け入れてしまっている。
しかし、その幻影の嵐の中、唯一、少しずつ少しずつ着実に距離を詰めてくるのが、己の影。目的地である別荘を高台から見下ろしていたかつての自分と、その自分が見ていた現在の自分。取り残されたかのように今も高台にいた過去の己は、いつの間にか少しずつ、あわせ鏡を近づけるように現実の自分に近づいてきている。幻影と戯れていることで現在まで引きずり続けている不安定な自分の姿を、過去の自分が終わらせに来ているような印象を受ける。
神経を逆撫でするような不協和音が印象的な音楽は、ツトム・ヤマシタとジョン・ウィリアムズが担当。必ずしもソフィスティケートされた表現とは言い切れないが、明らかに過剰で不気味な初期アルトマンの傑作であると思う。