映画『辰巳』は、現代の裏社会を舞台にした鋭利なアジアンノワール作品。理屈を超えた人間の感情と、組織の論理、そして個人の倫理が交錯する物語。森田想の演技が印象的で、涙の意味を多層的に描き出す。カネと暴力が支配する世界で、わずかに垣間見える人間性の可能性を描き出している。
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小路紘史『辰巳』/枯れた感情の流す涙
誰にも共感させないし、誰にも同情させない。危うく共感したり、同情しそうになるとなると「わたし、そういうタイプの人間ではないので…」とばかりにスルッとかわされてしまう。すべての行動が、あくまで打算 的でしたたかな選択の結果でしかない。そんな裏社会の話だったはずなのに、では何故辰巳はほぼ何の利害関係もない葵を救おうとしたのか。道理からポンと飛び出してしまった事態に狼狽えている、そんな台詞で物語を終わらせてみせるスマートさがここにある。
京子の話は言い訳として口の端に上るが、そもそも「仁義」なんてものすらオールドスクールになった現代の物語。「俺たちみんな、カネがない」そんな世の中で、すべては「道理」の話になる。いわゆる「家族」の論理でいえば、竜二や取り巻きは「正しい」ので、彼らの不条理な暴力に嘆いてみせたとしてもそれに抵抗する理屈が存在しない。「優しさ」は鍵となるが、ふとこぼしてみせた「お前はいい奴だからな」という台詞(行間に「俺とは違って」が隠れている)からも分かる通り、無私の優しさは理屈に合わない。理解が出来ない。
冒頭からまるでクライマックスのような風の音。シャブ中だった弟の死がぶっとい補助線。本来組織に属しているはずの人間が、守るべきと組織に決められた倫理とは外れた、もう一つの倫理をずっと心に秘めていて、ふとしたきっかけにそれが爆発してしまう。そのトリガーを引くキャラクターとして、周囲に文字通りツバを吐き続ける葵のクズさ、手のつけられない横暴さは必然のように感じた。役者は総じて素晴らしかったが、ここは特に森田想さんの役割が非常に重要だったと思ってる。
俺たちの上海小吃が、ヤクザの根城に変わる。ディアオ・イーナン『鵞鳥湖の夜』とか、ナ・ホンジン『哀 しき獣』、そして何と言ってもヤン・イクチュン『息もできない』のような、アジアンノワールの系譜に堂々と名を連ねる傑作。劇中でたった三回、流れる涙が持つ別々の意味を、ずっと咀嚼していたい。