歴史の暗部や人間の感情の麻痺、倫理的境界線について深く問いかける概念。ナチス時代の用語でありながら、現代社会における無関心や加害者心理を象徴する。境界の彼岸にある「関心」の本質を、冷徹な視点で描き出し、人間の残酷さと可能性を同時に照射する。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
ジョナサン・グレイザー『関心領域』の冷たいカメラ
冒頭、長い長い暗闇を抜けると、あまりに不気味な低音が鳴り続けているので、自然、みな無理しているように見える。こんなところに長くいれば、頭がおかしくなってしまうに違いない、とすら思う。しかし、アウシュビッツの収容施 設から運ばれてきた囚人たちの衣服を品定めし、邪悪なジョークを飛ばしながら平気で試着しているのを見ると、この人たちは完全に感情も倫理も麻痺してしまったのだ、と衝撃を受ける。
しかしながら、この人たちのようにある種の「立場」に収まってしまった時、つまりここでは「ユダヤ人を迫害することが正義とされる立場」に追いやられてしまったマジョリティであった場合、俺たちは本当に今の倫理観を保ち続けることが出来るのだろうか、と、自分の弱さを直視させられているような気分に恐怖する。イスラエルとパレスチナの問題しかり、ウクライナの問題しかり。もっと身近にある問題、例えば自分の周囲の優しい人々が、ある日突然クルド人に石を投げ始めた時、その礫を受け止める勇気が自分にあるだろうか、という問題として捉え直すと、僕はとても怖くなってしまう。
「関心領域」とはそもそも、実際のナチス・ドイツ時代に使われていた用語らしいが、よく考えると、どういう意味なのか判然としない。それはあくまで「The Zone of Interest」であり、「Out of〜」でも「In〜」 でもないので、ある種の「境界」がそこにある、ということでしかない、のだろうか。川を染める白い灰。見事な庭を分かつ収容所の壁。そのどちら側に「関心」があるのか、そのどちら側に心を寄せるのか、それが問われている。
まるで監視カメラのように、視線は終始冷え切っている(『バイオハザード』のような視点だと思った)。その視線からは伝えようという気持ちが一切感じられない。全体的に呆れているようにも見える。しかしその境界を、