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マンディンゴ

ハンサムな白人青年のハモンドは、奴隷農場「ファルコンハースト農園」の若旦那。足を引きずる不具の身であるコンプレックスを抱える彼は、白人社会の慣習と己の良心の間で引き裂かれそうになっている。その葛藤に、甘い結末など用意されてはいない。登場する白人たちの誰も彼もが問題を抱えており、同情に値するかと思えた人物も、次の瞬間では加害者としての顔を顕にする。被害/加害の二律背反を背負って生きる白人の支配者階級も、皆一つ皮をむけば、社会のシステムによって支配される被支配者なのであるという現実が牙を剥いている。

リチャード・フライシャー監督による本作『マンディンゴ』は、「ブラックスプロイテーション」として上映禁止処分を受けた映画として有名(僕は町山智浩さんの著作で知りました)。だが実際のところ、ここでセンセーショナルにあぶり出されているのは白人側の問題であり、もっと言えば、奴隷制を含む白人/黒人を包括した社会システムの問題である。白人が黒人を奴隷として搾取する慣習、迷信、男性によって踏みにじられた女性の人権、引き裂かれる親と子、名誉黒人、嫉妬、娯楽として暴力を消費する問題。宣伝美術も含めて、明確に批判対象となっている『風と共に去りぬ』の肉と皮を露骨に裏返して見せたような、グロテスクな批評精神がここにはある。現代の目線で見ると、『風と共に去りぬ』のヤバさ(無批判で、というよりはむしろ牧歌的な「古き良きもの」として描かれる黒人奴隷とか)は割と歴然としているので、伴って『マンディンゴ』の見え方・評価も変わってきたのではないかと想像する。

フライシャー監督が仕込んだ「批評精神」は細部に渡る。「黒人女の奴隷は、男主人によって処女喪失させられる」という忌まわしい慣習に従い、「体臭がひどい」と酸の風呂に入れられた奴隷娘のビッグ・パールがハモンドに抱かれるシーン。ここで、デコラティブなメロドラマ風劇伴が鳴らされるのには心底辟易とさせられるが、この50年代的能天気さが、黒人奴隷の逃亡シーンでは霧散している。アフリカの土着音楽的なポリリズムが躍動するこのシーンで、冒頭の音楽演出は意図的なものであったことがわかる(Wikipediaによれば、音楽監督のモーリス・ジャールもそのように言及しているとのこと)。主題歌「Born in This Time」で「自由のない国=アメリカ」を歌うのが、マディ・ウォーターズというのも、いかにもシンボリック。アフリカから強制連行された黒人奴隷の子どもたちが歌う、白人社会の退廃。この退廃は未だ解決されていない問題であるし、例えば外国人技能実習制度という現代の奴隷制度を持つ日本だって他人事とは言っていられない。

うらぶれた、というよりは、内側から腐った内臓の様に見えるファルコンハースト農園の母屋はいつも暗く、油紙を指で引っ掻いたような禍々しいカーテンが茶色く淀んだ光をかすかに通すだけ。まるで『叫びとささやき』『狼の時刻』のベルイマンのような寒々しい猟奇が宿った部屋で、じくじくと育った狂気と憤りが、陰惨な結末に続く道を舗装している。

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