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DAU. 退行

イリヤ・フルジャノスキーによる『DAU』プロジェクトの偏狂ぶりは、『DAU. ナターシャ』のレビューの際に触れた通り。その第二作目となる本作『DAU. 退行』は、上映時間6時間9分という、穏当に言っても「苦行」にカテゴライズされる代物。どうみても正気の人間が作ったとは思えないと同時に、映画好きに素通りはさせない圧を感じる。

1952年の物語であった前作『DAU. ナターシャ』から14〜16年。1966〜68年が舞台となる『DAU. 退行』では、あの大喧嘩の舞台となったカフェやその厨房に加えて、前作でヴェールに包まれていた、物理学者レフ・ランダウによる秘密研究施設の内部が描かれる。数多くの登場人物、6時間超という長尺、ダンテ『神曲』になぞらえた9章から成る物語は、当然多くのモティーフ、多くのテーマが重なり合うように存在していて、どこをどのように切り取るかによって感じ方が大きく異なると思う。『ナターシャ』同様、終盤にかけての展開にかなりの衝撃があり、鑑賞後の印象がそこに引きずられてしまうきらいはあるかもしれない。

「共産主義は宗教」と定義したラビによる語りが、全編通して各章の終わりを中心に挿入されていることに注目したい。この「共産主義観」は、一つの重要なモティーフとして機能している。ガチガチの恐怖政治、監視と粛清の時代であったスターリン体制が崩壊。ロックンロールなど西欧の文化が入り込み、空気が緩んできたフルシチョフ時代の「退廃」とその終焉を描くのが前半パートである。浴びるように酒を飲んだ連中がグラスや皿を投げあい、挙げ句生魚を叩きつけあうというあまりの凄まじさに圧倒された前作『ナターシャ』での乱痴気騒ぎは本作でも健在で、夜毎乱痴気に明け暮れる若者たちと、それに飲み込まれて自由を謳歌する年寄りたちの姿が描かれる。交通事故で身体の自由を失い、ほぼ意思の疎通も出来ないランダウ(ダウ)の研究所には、数学や科学を志す若者たちがやってきて、日中は研究所で高度な学問を修めながら、宿舎ではタバコに酒にダンスにマリファナという時間を過ごしている。

しかし、キューバ危機を経た冷戦体制が確立してくるに従って、国家による民衆の締め付けも厳しくなってくる。共産主義からすると「堕落」と捉えられかねない西欧文化の浸透を許してきた研究所所長が、自身のレイプ疑惑やセクハラ、資金流用を責められて自主退職させられる。代わりに所長となったのは、KGBの尋問官アジッポ。前作『ナターシャ』で壮絶な拷問を働いた男が研究所の権力を握ると、厳しい監視下で規則違反は取り締まられるようになる。研究発表や実験の場では爆睡していた職員も、若者相手に活き活きと尋問を始めるようになる。その権力下では、学問を続けるのも困難であると判断した若者たちが去り、代わりにKGBの息がかかった特別実験の被験者たちがやってくる。研究内容にも見直しが入り、そこで改めてこの研究所が、「完璧な人間を作り出す」という「超人計画」の実現を目的にしているということが強調される。そのためには、本能を書き換え、新生児に電極を当て、集団催眠的なオーガズムを体験させたり、「愛国的」な人間を集め、人工的なサイコパスを作り出すことも厭わない。

アジッポが所長に就任して以降は、国によって定義された「善」の暴走が描かれることで、「善行には、必ず悪行が伴う」という冒頭の議論が、徐々に物語を犯し始める。「国から命じられたなら、当然人でも殺しますよ」と言ってのけ、黒人や有色人種を嫌悪し、優生思想を誇る「愛国心」を持つ被験者たちは、アレッポたちから秘密裏に「組織に緊張をもたらす役割」を任ぜられる。彼らの自尊心は、それを以て加速する。思春期を中心に、自分とは趣味も思想も合わない人間による大げさな内輪ノリが、自分の心を死にたらしめた経験は誰にでもあると思う。ここではああした、殺人的な退屈さが、こともあろうか国家権力と結託して暴走する、という恐怖が描かれている。ダウの息子、デニスの見事なピアノでの即興演奏を、「気持ち悪いやつの演奏は気持ち悪い」「抽象芸術は悪だ」と切り捨てる彼らの姿が、ナチスの退廃芸術と重なって見えてくるのだ。

一方で、物語に登場する英語も堪能で自由主義的な科学者であるカレージンが、黒板を前にアジッポに国家論を展開する場面が並行して描かれている。彼が説く「知識の自由化」と「愛国心への警戒」は、そのまま現在にも当てはめられる議論であり、2020年以降も続く未来予測があまりに現状を言い当てているのに驚く(まあ、当然か)。ただ頷き、傾聴しているように見えるアジッポと、現実に研究所で展開している事態のあまりの乖離。そのカレージンが研究所の宿舎に戻ると、その場を高圧的に支配する極右の愛国主義者たちに、タバコを吹かして目を逸らし、時にお追従してご機嫌を取る姿が何度も何度もフォーカスされると、「これはお前たちの姿だ」と突きつけられ、他人事とは感じられなくなってしまう。こうした、知性と暴力、自由と権力といった二項対立が、結果的にどのような結末をもたらすのか。その時に、板書と講義を前に頷いていたアレッポの矛盾は矛先を固めるのであった。

終わってから考えれば物語には必要不可欠だったとは言え、あまりに激しい暴力描写、あまりに激しい性描写に、「とんでもないものを見せてもらったが、どこかでしっかり怒られて欲しい」と願ったが、既にこっぴどく怒られてた…。プロジェクト規模に比べてあまりに個人的な物語だった『ナターシャ』の、底知れない世界の広がり、というのとは一味違う、ある種、このプロジェクトの中核となるテーマを短い時間(…6時間でよく書ききった!!)でしっかりと提示してみせた『退行』。物語の中で複数に渡って言及される、この「退行」に込められた意味が、1968年のソビエト連邦を経由して、しっかりと、今の、日本の、我々に届く、というのが重要なことに違いないと思う。

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