Post

ザ・スーサイド・スクワッド ”極”悪党、集結

かつてクリストファー・ノーランが大傑作『ダークナイト』で掲げた漆黒のバトンは、ザック・スナイダーに渡されてなお、黒々と忌まわしく輝く。そんな漆黒のイメージがつきまとう「DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)」にに「色彩」を持ち込もうとした人たちによるフロンティアがここ、『ザ・スーサイド・スクワッド』。

かつてトロマで手掛けた『トロメオとジュリエット』に大金を注ぎ込んでしまった…という印象で半笑い鑑賞していたら、『悪魔の毒々モンスター』のフッテージまで挿入されるという、ジェームズ・ガンにとっての原点回帰…。というか、自身の過去の舌禍を経て、運命の悪戯か、映画を「自由に」撮っても良いという状況を手に入れた彼による、高らかなる「自由」の再定義にすら見えた。「俺はこういう人間ですから」という堂々たる開き直り。冒頭の大殺戮シーン(このシーンの時点で子供には見せられない)の身も蓋もなさ、頭ボーンで海に撒き散らした脳味噌で描く「Warner Bros. Presents」…、殺戮遊戯の派手さを競う主人公たちの悪辣・下品さ。100人以上は血塗れで死んでいった印象がある。どこを取っても、よほどこういう分野に通じたものでなければ気軽にはオススメ出来ないハードコアさに見るトロマイズム。しかしながら、暴力の発露の中に花開く、とろけるようなロマンチシズムも確か。これこそ、ジェームズ・ガンの奇特な性質であり、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を成功させている美しい才能であって、しかし『トロメオとジュリエット』の下品さの中にも確実に存在していた宝石である。

血や臓物に花弁、そして色とりどりの鳥たち。ジェームズ・ガンのロマンティシズムは、「色彩」として画面を支配している。サバント(『GoG』でヨンドゥを演じたマイケル・ルーカー)による鳥殺しがどういう末路を迎えるかと言えば、海に浮かぶ臓物と羽の色。色彩豊かな南国の鳥たちは、常に忍び寄る漆黒の死と向い合せである。ハーレイをうっとりさせる籠の中の鳥は、無残に焼き殺される。DCの闇と、トロマの脳天気なロマンティシズムが拮抗し、嬉々としたハーレイが血と花を撒き散らしながら殺しのダンスを踊る

ネタバレは避けるが、最終決戦においてもこの構図は崩れない。ある生き物たちによってもたらされる黒と、様々な色彩のパワーバランスの均衡が最終決戦の肝になっているが、その行く末には意外な結末が待っている。黒と色は混じり合い、物語のカタルシスが頂点を迎える瞬間、その融合は「極楽」と称されるのであった。

『アクアマン』や『ワンダーウーマン』『シャザム!』、忘れてはいけない『バーズ・オブ・プレイ』。DCEUに持ち込まれようとしてきた新しい色彩、新しい血は、こうして些か暴力的に外挿されたのであった。とっちらかっているのだが、(品の有無も含めて)多様な魅力がある。このユニバースは、そんな下品で雑多な地点を目指しているのだなという宣言として好ましく観た。自由を獲得したこの世界で、ジェームズ・ガンが今後どうしていこうと思っているのかは詳しくは知らない(『ピースメーカー』のドラマ化が企画されてるらしいね)が、かつての成功のバトンとして獲得した単色の世界が、本作を以て多様な色彩を獲得したのは確かだと思う。

もっと読む