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隠れてタバコを吸う程度には素行が悪い、ごくごく普通の15歳の女性であるキアラ。姉の誕生日パーティの後、父親が突然姿を消す。「何故?」「何処へ?」という疑問に、向き合ってくれる大人はおらず、諦めきれないキアラは学校をサボり独自に情報を集め、「父とはどんな人物だったのか」「父が何故いなくなったのか」という追求の果てに、自分の家族の成り立ちにまで肉薄する問いと直面するようになる

ダルデンヌ兄弟の影響ってデカいんだな、と感じさせる。シビアで現実的な問題設定と、どこか距離のある醒めたカメラ越しの目線。アスガー・ファルハディの作品とも通じる温度感の物語から、目が離せなくなる。飯が美味そう、親戚ちょっと悪そう、でも楽しそうな誕生日パーティーで、どれだけ場の空気が悪くなろうが、不自然なほど頑なにスピーチを拒否する父親の「言葉」。若いキアラが乗り越えた艱難辛苦の果てに、全く同じ言葉が発せられた瞬間。もしくは、狭いジムでランニングマシーンを使う冒頭がまるで反転したように、画面奥、観客に背中を向けて走っていくキアラを収めたラストの光景。これを、或る宿痾からの解放とみなすのか、それとも若者の冷淡さと取るのかで、見え方が全く変わってくるはず。

イタリア映画祭2022で鑑賞したジョナス・カルピニャーノ監督作品。オンライン配信出来ない旨も伝えられているので、上映あるうちに。

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