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デッド・ドント・ダイ

トム・ウェイツ演じるホームレスの元を立ち去ろうとするアダム・ドライバーが、目を離さぬよう、そろそろと後退する冒頭の様子に、確かなリズムを感じる。ルックはいつも一緒だけど、演じ分けの幅が広い、素晴らしい役者。たった数歩の奥行きの中に、臆病さと慎重さ、弱さと強さを滲ませる。

作家性に胡座をかいて、きちんと向き合う覚悟も気概もないまま制作された(括弧付きの)「ジャンル映画」が本当に苦手なので、ジム・ジャームッシュが「ゾンビ映画」を撮ると聞いた時も一抹の不安は拭えなかったのだが、結論、これはアリだと思う(思い返せば、ジャームッシュ流吸血鬼映画である『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』もしっかりとジャンル映画を咀嚼しつつ、全く別物として再構築されていた)。ジャンルに寄り添うでも無視するでもなく、ただ全力で「ゾンビ」と「オフビートコメディ」をマッシュアップして見せる、その強度。「ああ、ゾンビ映画と見せかけて、コメディやるタイプのやつね…」と高をくくっていると、いつの間にか「弛緩の象徴」としてカリカチュアされたゾンビの襲撃に首までつかっている。

消費社会の只中にいる人間そのものの比喩として立ち現れる「生きた死体(Living Dead)」という観点は、本作でも明確に(というか、ほとんど直喩に近い形で)提示される。Wi-Fiを求め、コーヒーを飲み、テニスに興じ、ホームセンターに向かうゾンビたち。この「ゾンビ映画の本質をどこに捉えるか」という命題の答えをジョージ・A・ロメロに求めるっていうしぐさは、直球すぎて笑っちゃうんだけど、直球なんだから外れるわけがない。ロメロがゾンビ映画にもたらした「弛緩」という特性も改めて強調されている(『ゾンビ(Dawn of the Dead)』は弛緩を描いた奇妙な映画だった)。ゾンビの「ダラダラしている」という特性はオフビートコメディとかなり相性が良く(それを「再発見」したのがエドガー・ライト『ショーン・オブ・ザ・デッド』)、特に中盤に至るまで、物語はダラダラダラダラと弛緩し続け、「まぬけ」がそこかしこに表出することとなる。

「弛緩の果て」に待っていた資本主義的な地獄。文明の横暴さが招いた悲劇に飲み込まれていく構図は、コメディとして見ると壮大にスベっていて、どんどんと居心地の悪い映画になっていく。アダム・ドライバーだけが預言者的に、第四の壁を乗り越えて、物語に提言を加えようとしてくる。資本主義〜文明社会に飲み込まれてしまう人々と、そうではない人々の差異を感じながら、幕はいつの間にか降りているのだ。

イギーポップのゾンビとか、オタクのウィギンズ(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)をビルボ・バギンズと呼んでからかうRZA(踏んでる!)とか、もうなんというかセックスアピールが服着て歩いてるようなセレーナゴメスとか、そして勿論ティルダ・スウィントン(直角に曲がりながら警察署に入ってくるシーンは声出して笑った)とか、それ観ただけで十分に笑えるから、観ないで済ませるのは損っすよ。

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