若手実力派俳優として知られる彼は、繊細かつ大胆な演技で注目を集めている。『若草物語』では、オーバーアクトな演技が話題となり、アイドル的な魅力も併せ持つ存在。映画界で急速に台頭し、独特の存在感で若い世代から支持されている才能豊かな俳優。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊

あまり熱心とは言えないファンにしては割と意気込んで、その証拠に公開初日、いち早く鑑賞にこぎつけたウェス・アンダーソン監督最新作。一本の映画としての脈絡や体裁を棄ててものしたのは、軽やかで自由だが、しかしはっきりとウェス・アンダーソンしか撮り得ない世界観の傑作だった。

『カンザス・イヴニング・サン』という架空の新聞の別冊である『フレンチ・ディスパッチ』誌は、編集長の死を以て廃刊となる。その最終号に寄せられた原稿、関連性の薄い3つの物語と、短いルポに編集長の追悼記事が、この映画の本筋となる。つまりオムニバス。
ここに集められた物語は、どれもシンプルに面白く、軽妙で見応えがあるものだが、反面それが寄せ集められる必然性には乏しい。ただ楽しいだけの物語たち。しかし、この『フレンチ・ディスパッチ』という謎の雑誌が持つ空気、亡くなった編集長(演じるのはウェス・アンダーソン作品常連のビル・マーレイ)率いるこの集団が作り出してきた空気と、その編集部を包み込む街(これもまたパリに似た架空の街)の空気だけが、通底している。街に記憶があり、その記憶が脈打っているようにも見える。
各物語、いかにもウェス・アンダーソン的な様式美に満ちているが、同時に種々のオマージュが込められているのが分かる。特に目につくのが、フランス映画 の名作を想起させる描写。オーウェン・ウィルソン演じる自転車乗りの記者による街のルポルタージュは、ルイ・マルや、ジャック・タチのコメディ的な軽快さで進行する。アート欄に掲載されたジャック・ベッケルやメルヴィルのフレンチノワール的な雰囲気の物語は、ちょっと捻れたアウトサイダー・アートを巡るミステリー。ベニチオ・デル・トロとレア・セドゥ、ティルダ・スウィントンが見事。
続く、5月革命を骨抜きにした「チェス革命」の主人公をティモシー・シャラメが演じる物語でも、『中国女』『男性・女性』といくつかのフランス映画を否が応でも彷彿とさせるが、激しく語弊があるのを承知で「ゴダールにこんな才能があったらなー」とでも書きたくもなる(なぜなら、『中国女』は何度観ても寝てしまうのだ、私は)。そのものズバリ、シャンタル・ゴヤも流れます。途中のバイクシーンは『ポーラX』?最後の話は、ちょっと文脈がズレるが、ルイス・ブニュエルのような雰囲気もある。シアーシャ・ローナンの青い目がカラーで映し出される。
と、ともすれば映画ファンのスノビズムとして唾棄されてしまうような、わかりやすいオマージュにあふれているのだが、それらを完全に自分のものとして構築し直しているウェス・アンダーソンの手腕には感心させられる。とかく画面を埋め尽くす情報は、特に字幕を追う日本語話者には厳しすぎるぐらいの量で、『グランド・ブタペスト・ホテル』『犬ヶ島』をも凌駕している(もう一回観ないと、全貌把握が難しい)。モノクロとカラー、頻繁な画角の変更、アニメーションの導入など、手法にも制限がないのに、 舞台美術や撮影を含む美意識に一貫性があるので、とっちらかった印象も受けない。職人技だけど、「すごい。りっぱりっぱ。よくできてますね」では終わらせない、圧の強い創造性が画面から飛び出さんとしているのを観た。
ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語
のっけから横運動である。俺たちの「横運動」に対する爛れた執着たるや!グレタ・ガーウィグもノア・バームバックも、レオス・カラックスに、トリュフォーに取り憑かれてる。『フランシス・ハ』でグレタ・ガーウィグ自身が演じたように、NYの街を右に走り抜けるシアーシャ・ローナンこと次女ジョー。初見では、完全にジョーがところどころ跳躍しているように見えてた。躍動感。撮影監督はヨリック・ル・ソー。近年だとアサイヤス『パーソナル・ショッパー』やクレール・ドニ『ハイライフ』を手掛けている。被写界深度浅めの映像で、ダンスやスケートに興じ、次第に熱を帯びていく俳優たちの顔を前景として浮かび上がらせる。大変美しい、印象に残るシーンの数々。
グレタ・ガーウィグによる二本目の監督作は、ルイーザ・メイ・オルコット『若草物語(Little Women)』というド定番が原作。初監督作『レディ・バード』と比べると、ルックや演出の重厚さは増し(原作や時代設定のせいも あるのかも)、その代わり若干目立った脚本の粗は、しかしながら重大な欠陥とは思えなかった(ジョーの「癇癪」と、フローレンスとの仲違いは、もう少しスムーズに結びつけて欲しかった、とかあるけど)。何よりこの作品の美点は、「女性にとって、結婚がすなわち人生の終着点である。もしくは死」という価値観に対して、最上級にクレバーな回答を突きつけるところにあると思う。後で原作調べてみたんだけど、改めて今作の処理がクレバー過ぎて白目剥いた。「理想はある。でも、やっぱり寂しい」という気持ちに、どう折り合いをつけるのか。奴隷解放主義者にして、フェミニストでもあったオルコットの自由への渇望が生々しくストーリーに接続されることで、あえて「今」、何度目かの実写映画化をする意義を感じることが出来た。
シアーシャ・ローナン、ルイ・ガレル、まさかのボブ・オデンカーク(ソウル!)。脇からメインまで(俺の。そしてみんなも、だろ?)好きな俳優が勢揃い。ローラ・ダーン含めて、大雑把に言うと「アイドル映画」としか思えない体裁だが、各々の演技にそうはさせない気概が見える(特にそれを隠そうともしないティモシー・シャラメのオーバーアクトを除く!あれは「アイドル」っぽい!)。エマ・ワトソンの役に徹する姿勢(リスペクト!)。そして何と言っても『ミッドサマー』で俺たちの新しいホラーミューズとなったフローレンス・ピュー。彼女に尽きる。野太い声にがさつな動き。いつまでもチルディッシュで、激情型で、しかし憎めないコケティッシュさがあるのだが、伯母と共にパリに渡ると、色ん なところにほころびを覗かせながら社交界の花を演じ始める。エイミーの変化を、説明するのではなく体現してみせる、堂々とした演技だった。

「つうか、もしかして、『若草物語』ってめちゃ名作なのでは……?」っていうのが最終的な感想でした。映画化の鑑だね!