アイルランド出身の演技派女優。『アトーンメント 償い』で13歳にして英国アカデミー賞主演女優賞にノミネートされ、『レディ・バード』『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』などで高い評価を得る。『天使の処刑人 バイオレット&デイジー』では無垢な殺し屋デイジーを演じ、相棒バイオレットとの関係性や、ターゲットとの対話を通じた心理的変化を繊細に表現。独特の透明感と芯の強さを併せ持つ演技で、多様な役柄に挑戦し続けている。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
『天使の処刑人 バイオレット&デイジー』/殺し屋美少女コンビと三人目の娘
これを「アクションコメディ」と呼ぶのは、『パルプフィクション』をそう呼ぶのに近い。ほぼ詐欺である。「天使の処刑人」も 、ど直球の詐欺案件。作りとしてはチュルヒャー兄弟『ガール・アンド・スパイダー』とかに近い感触の映画だと思う。
とは言え、物語は、タランティーノばりにケレン味たっぷりのガンアクションから幕を開ける。そこでのいくつかの些細な違和感は、2010年代的なケレン味の中で回収されるかと思いきや、シアーシャ・ローナンとアレクシス・ブレデルによる「美少女殺し屋コンビ・バイレット&デイジーの日常」という今では「ベビわる」に継承されるスキームの中で、じわじわと膨らんできてしまう。ドレスが買いたいから割りの良さそうな殺しの仕事を請ける、というところまではわかるが、組織のメンバーであるラス(演じるはダニー・トレホ)と手遊びしている姿を、従来の「ケレン味」で処理するのは難しい(二度言うが、演じるはダニー・トレホだよ)。
次なる処刑のターゲットが留守だったので、銃を持ったまま眠りこけてしまう二人。帰ってきたターゲットは、こともあろうに眠る二人の殺し屋にやわらかな毛布をかけて、自分も眠ってしまう。完全にプロ意識の欠落した「凄腕」の殺し屋二人であるが、その二人が眠るソファのすぐ後ろの壁には、ターゲットの娘とおぼしき写真が飾られていて、さっきまで留守番電話でターゲットを罵倒していたのも、この娘なのであろう。この不在の娘の写真は、執拗に二人の間に配置される。まるでそこにターゲットと対峙する「3人の娘」がいるようにも見える。

劇伴はほとんど鳴らないため、静寂の中、ターゲットと「3人の娘」の対話が始まる。組織に対して盗みを働き、追われる身になってしまうターゲットは、同時にライバル組織の方にも同じような裏切りを行っていて、都合二つの対立する組織に追われている状態。ターゲットが危機的状況に陥る度に銃弾を使い果たすバイオレットとデイジーは、その都度、近所の闇ショップまで銃弾を調達にでかけなければいけない。こうして、処刑までの時間は引き伸ばされ、弛緩していく。
無垢なデイジー(シアーシャ・ローナン)が、ターゲットとの対話を通して仲を深めていく一方で、神経質なバイオレット(アレクシス・ブレデル)はその悪夢的な時間感覚の中でいくつものオブセッションに囚われ、自分を見失っていく。かつて失ってしまったパートナーのローズ、何かを足で踏みつけにする事(「けんけんぱ」のことを、英語では「Hopscotch」と呼ぶらしいです)、飛行機の影と事故。この「容易い仕事」にいかなる結末が用意されているか、も大変な関心ごとではあるが、それ以上に気になるのは、仕事を終えた二人の「美少女殺し屋コンビ」は、何事もなかったかのように、あの部屋での生活を再開させるつもりなのだろうか、ということ。
章立てになっているこの物語が、9章だけ「9A」と記されていたことに注意したい。いくつかある結末の一つで、個人的には一番突拍子もない展開がチョイスされたと感じたが、肝心なのはこれが「9B」であっても「9C」であっても、続く「One More Thing」はきっと変わらなかったであろうこと。それは、ドレスを着たデイジーに、ターゲットが「エイプリル!」と怒鳴った時点で決まっていた結末だったはず。バイオレット、デイジー、ローズ。そして娘の名前は、エイプリル。まるで春の小さな花壇を見ているような映画だったと思う。
フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊

あまり熱心とは言えないファンにしては割と意気込んで、その証拠に公開初日、いち早く鑑賞にこぎつけたウェス・アンダーソン監督最新作。一本の映画としての脈絡や体裁を棄ててものしたのは、軽やかで自由だが、しかしはっきりとウェス・アンダーソンしか撮り得ない世界観の傑作だった。

『カンザス・イヴニング・サン』という架空の新聞の別冊である『フレンチ・ディスパッチ』誌は、編集長の死を以て廃刊となる。その最終号に寄せられた原稿、関連性の薄い3つの物語と、短いルポに編集長の追悼記事が、この映画の本筋となる。つまりオムニバス。
ここに集められた物語は、どれもシンプルに面白く、軽妙で見応えがあるものだが、反面それが寄せ集められる必然性には乏しい。ただ楽しいだけの物語たち。しかし、この『フレンチ・ディスパッチ』という謎の雑誌が持つ空気、亡くなった編集長(演じるのはウェス・アンダーソン作品常連のビル・マーレイ)率いるこの集団が作り出してきた空気と、その編集部を包み込む街(これもまたパリに似た架空の街)の空気だけが、通底している。街に記憶があり、その記憶が脈打っているようにも見える。
各物語、いかにもウェス・アンダーソン的な様式美に満ちているが、同時に種々のオマージュが込められているのが分かる。特に目につくのが、フランス映画の名作を想起させる描写。オーウェン・ウィルソン演じる自転車乗りの記者による街のルポルタージュは、ルイ・マルや、ジャック・タチのコメディ的な軽快さで進行する。アート欄に掲載されたジャック・ベッケルやメルヴィルのフレンチノワール的な雰囲気の物語は、ちょっと捻れたアウトサイダー・アートを巡るミステリー。ベニ チオ・デル・トロとレア・セドゥ、ティルダ・スウィントンが見事。
続く、5月革命を骨抜きにした「チェス革命」の主人公をティモシー・シャラメが演じる物語でも、『中国女』『男性・女性』といくつかのフランス映画を否が応でも彷彿とさせるが、激しく語弊があるのを承知で「ゴダールにこんな才能があったらなー」とでも書きたくもなる(なぜなら、『中国女』は何度観ても寝てしまうのだ、私は)。そのものズバリ、シャンタル・ゴヤも流れます。途中のバイクシーンは『ポーラX』?最後の話は、ちょっと文脈がズレるが、ルイス・ブニュエルのような雰囲気もある。シアーシャ・ローナンの青い目がカラーで映し出される。
と、ともすれば映画ファンのスノビズムとして唾棄されてしまうような、わかりやすいオマージュにあふれているのだが、それらを完全に自分のものとして構築し直しているウェス・アンダーソンの手腕には感心させられる。とかく画面を埋め尽くす情報は、特に字幕を追う日本語話者には厳しすぎるぐらいの量で、『グランド・ブタペスト・ホテル』『犬ヶ島』をも凌駕している(もう一回観ないと、全貌把握が難しい)。モノクロとカラー、頻繁な画角の変更、アニメーションの導入など、手法にも制限がないのに、舞台美術や撮影を含む美意識に一貫性があるので、とっちらかった印象も受けない。職人技だけど、「すごい。りっぱりっぱ。よくできてますね」では終わらせない、圧の強い創造性が画面から飛び出さんとしているのを観た。
ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語
のっけから横運動である。俺たちの「横運動」に対する爛れた執着たるや!グレタ・ガーウィグもノア・バームバックも、レオス・カラックスに、トリュフォーに取り憑かれてる。『フランシス・ハ』でグレタ・ガーウィグ自身が演じたように、NYの街を右に走り抜けるシアーシャ・ローナンこと次女ジョー。初見では、完全にジョーがところどころ跳躍しているように見えてた。躍動感。撮影監督はヨリック・ル・ソー。近年だとアサイヤス『パーソナル・ショッパー』やクレール・ドニ『ハイライフ』を手掛けている。被写界深度浅めの映像で、ダンスやスケートに興じ、次第に熱を帯びていく俳優たちの顔を前景として浮かび上がらせる。大変美しい、印象に残るシーンの数々。
グレタ・ガーウィグによる二本目の監督作は、ルイーザ・メイ・オルコット『若草物語(Little Women)』というド定番が原作。初監督作『レディ・バード』と比べると、ルックや演出の重厚さは増し(原作や時代設定のせいもあるのかも)、その代わり若干目立った脚本の粗は、しかしながら重大な欠陥とは思えなかった(ジョーの「癇癪」と、フローレンスとの仲違いは、もう少しスムーズに結びつけて欲しかった、とかあるけど)。何よりこの作品の美点は、「女性にとって、結婚がすなわち人生の終着点である。もしくは死」という価値観に対して、最上級 にクレバーな回答を突きつけるところにあると思う。後で原作調べてみたんだけど、改めて今作の処理がクレバー過ぎて白目剥いた。「理想はある。でも、やっぱり寂しい」という気持ちに、どう折り合いをつけるのか。奴隷解放主義者にして、フェミニストでもあったオルコットの自由への渇望が生々しくストーリーに接続されることで、あえて「今」、何度目かの実写映画化をする意義を感じることが出来た。
シアーシャ・ローナン、ルイ・ガレル、まさかのボブ・オデンカーク(ソウル!)。脇からメインまで(俺の。そしてみんなも、だろ?)好きな俳優が勢揃い。ローラ・ダーン含めて、大雑把に言うと「アイドル映画」としか思えない体裁だが、各々の演技にそうはさせない気概が見える(特にそれを隠そうともしないティモシー・シャラメのオーバーアクトを除く!あれは「アイドル」っぽい!)。エマ・ワトソンの役に徹する姿勢(リスペクト!)。そして何と言っても『ミッドサマー』で俺たちの新しいホラーミューズとなったフローレンス・ピュー。彼女に尽きる。野太い声にがさつな動き。いつまでもチルディッシュで、激情型で、しかし憎めないコケティッシュさがあるのだが、伯母と共にパリに渡ると、色んなところにほころびを覗かせながら社交界の花を演じ始める。エイミーの変化を、説明するのではなく体現してみせる、堂々とした演技だった。

「つうか、もしかして、『若草物語』ってめちゃ名作なのでは……?」っていうのが最終的な感想でした。映画化の鑑だね!