1960年代アメリカン・ニューシネマを代表する作品『泳ぐひと』の主人公。郊外の社会における孤独と疎外感を象徴する存在として描かれる。近所のプールを渡り歩く彼の旅は、表面的な社交性の裏に潜む内面的な脆弱さと、社会からの疎外を暗喩的に表現している。最終的に現実の冷酷さに直面し、孤立と絶望を体現する、象徴的なキャラクター。
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『泳ぐひと』/邪気のない笑顔が凍りつくまで
唐突に「そうだ、俺は色んな家のプールを泳いで帰宅するよ」と、変な思いつきを告げる主人公ネッド・メリル(バート・ランカスター)の陽気な笑顔。プールとプールを繋いだ曲線のルートを、妻の名から取った「ルシンダ川」と川に見立て下っていく。とにかく一貫して突拍子なく、何が起こるのかわからない。基本的には誰からも愛されているネッドは、どこに行っても歓待されるのだが、昨日観たポランスキー『水の中のナイフ』同様、会話の歯車が少しずつズレている。ズレているので、「なんで病院に来なかった!」とか「二度と敷居をまたぐべからず!」などと、唐突に怒られたりする。突然怒られるのは怖い。
気持ちの不安定さと、距離と、時間とが作用して、ネッドの笑顔に陰りが見えだすと、あれほどカラッと晴天だった空にも雲が目立ち、彼は身体を丸めてつぶやく。「寒い…」と。あれほど温かに迎えてくれていた人たちはどこかに消え、社会に放り出されるのと同時に、彼がどのように生きてきたのかが詳らかにされると、その帰結として、今の自分が他人から、友人から、家族からどのように見られているのかが明らかになってくる。
ついに降り出した雨の中、「ルシンダ川」を下りきった彼が直面する「現実」。重く苦々しい真実に、湿り荒れ果てた地面に、心底ゾッとしてしまった。アメリカン・ニューシネマの奇妙な果実。傑作でした 。