イギリス出身の若手女優で、独特の存在感と演技力で注目を集めている。『ミッドサマー』や『若草物語』で印象的な演技を披露し、ホラー映画からドラマまで幅広い役柄をこなす。野太い声とがさつな動きながら、コケティッシュさと奥深い感情表現で、世界中の映画ファンから高い評価を得ている。
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『87分の1の人生』/低く低く、そこからでも抗うこと
母親の甘やかし、現実逃避のドラッグにテキーラ、スマホにインフルエンサー。依存症の現代的バリエーションを過剰に盛り込んだ「依存の申し子」のようなアリソン(フローレンス・ピュー)。交通事故を起こし、婚約者ネイサンの姉夫婦を死亡させるも、直前にスマホに気を取られていたという過失を認めること なく、悲しみに目を背けて婚約者からも逃げるように依存の日々を送る。
かたや、ネイサンの父ダニエル(モーガン・フリーマン)は、決して順風満帆とはいかなかった自らの過去を補正するように、鉄道模型に没頭する。自らが神として君臨する87分の1スケールの世界のそこここに、夢見た理想の人生を散りばめて慰みとしているが、望もうと望むまいと彼の人生はまだ終わっていない。両親を失った孫娘ライアンを引き取り必死に育てるのだが、肉親を亡くしねじくれて刹那的な彼女の心は、老祖父や学校、社会との軋轢を生むばかりで、ダニエルは途方にくれる。
アリソンとダニエルにライアン、そして元婚約者であるネイサンの人間関係の中心には死んだ姉夫婦があって、その突然の不在がハリケーンのように彼らを引き裂いてしまう。失われた臓器が形を取り戻していくかのように、運命と不随意な行動の連なりが新しいリレーションシップを導くと、それぞれの「依存」の形がはっきりと形を取り始める。特にアリソンが自らの人生を取り戻すには、これらの依存から抜け出すことが必要である。その枷がいかにして彼女を締め付け、どのような闘いと、どのような意志と偶然が、彼女の運命に作用するのかを、観客はつぶさに目撃することとなる。
運命と赦し、依存と自立。かりそめでもいい、鉄道模型を高みから見下ろすような「神の視点」を求めたダニエル。自ら言うように「正しい人間(A Good Person)」であると言い切れるような、そんな人生を送ってきたとはお世辞にも言えない彼が、それでも抗うように自身の手首に刻んだ文字の意味をアリソンに伝える。同じように、自分を捨てた父という枷を手首にはめていたアリソンの、自室に残るピアノと水泳のメダル。低みから見上げる、そんな抗いの記録にも似た物語だった。
ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語
のっけから横運動である。俺たちの「横運動」に対する爛れた執着たるや!グレタ・ガーウィグもノア・バームバックも、レオス・カラックスに、トリュフォーに取り憑かれてる。『フランシス・ハ』でグレタ・ガーウィグ自身が演じたように、NYの街を右に走り抜けるシアーシャ・ローナンこと次女ジョー。初見では、完全にジョーがところどころ跳躍しているように見えてた。躍動感。撮影監督はヨリック・ル・ソー。近年だとアサイヤス『パーソナル・ショッパー』やクレール・ドニ『ハイライフ』を手掛けている。被写界深度浅めの映像で、ダンスやスケートに興じ、次第に熱を帯びていく俳優たちの顔を前景として浮かび上がらせる。大変美しい、印象に残るシーンの数々。
グレタ・ガーウィグによる二本目の監督作は、ルイーザ・メイ・オルコット『若草物語(Little Women)』というド定番が原作。初監督作『レディ・バード』と比べると、ルックや演出の重厚さは増し(原作や時代設定のせいもあるのかも)、その代わり若干目立った脚本の粗は、しかしながら重大な欠陥とは思えなかった(ジョー の「癇癪」と、フローレンスとの仲違いは、もう少しスムーズに結びつけて欲しかった、とかあるけど)。何よりこの作品の美点は、「女性にとって、結婚がすなわち人生の終着点である。もしくは死」という価値観に対して、最上級にクレバーな回答を突きつけるところにあると思う。後で原作調べてみたんだけど、改めて今作の処理がクレバー過ぎて白目剥いた。「理想はある。でも、やっぱり寂しい」という気持ちに、どう折り合いをつけるのか。奴隷解放主義者にして、フェミニストでもあったオルコットの自由への渇望が生々しくストーリーに接続されることで、あえて「今」、何度目かの実写映画化をする意義を感じることが出来た。
シアーシャ・ローナン、ルイ・ガレル、まさかのボブ・オデンカーク(ソウル!)。脇からメインまで(俺の。そしてみんなも、だろ?)好きな俳優が勢揃い。ローラ・ダーン含めて、大雑把に言うと「アイドル映画」としか思えない体裁だが、各々の演技にそうはさせない気概が見える(特にそれを隠そうともしないティモシー・シャラメのオーバーアクトを除く!あれは「アイドル」っぽい!)。エマ・ワトソンの役に徹する姿勢(リスペクト!)。そして何と言っても『ミッドサマー』で俺たちの新しいホラーミューズとなったフローレンス・ピュー。彼女に尽きる。野太い声にがさつな動き。いつまでもチルディッシュで、激情型で、しかし憎めないコケティッシュさがあるのだが、伯母と共にパリに渡ると、色んなところにほころびを覗かせながら社交界の花を演じ始める。エイミーの変化を、説明するのではなく体 現してみせる、堂々とした演技だった。
「つうか、もしかして、『若草物語』ってめちゃ名作なのでは……?」っていうのが最終的な感想でした。映画化の鑑だね!
ミッドサマー
強烈なトラウマを経験し、何かに依存して生きざるを得なかった人間が、圧倒的なカルチャーショックの末、遂に主体性を取り戻す物語…と書くと、まるでホラー映画のストーリーとは思えないのだ。『へレディタリー』アリ・アスター監督の長編第二作目。エンドロールが終わると、初日満員の客席が異様な空気とざわめきを湛えていた。
フォーク・ホラーの系譜として語られる本作。この「フォーク・ホラー(Folk Horror)」なるジャンル、僕はBandcampの記事で初めて目にしたが、そこからもリンクされているBFIの記事にも詳しい。パッと連想したのは傑作『ウィッカーマン』(1973年。絶不評のニコラス・ケイジ版は未見)や、アニャ・テイラー=ジョイの出演する『ウィッチ』(2016年)だが、特に名高い『Blood on Satan's Claw』(1971年)や『Witchfinder General』(1968年)など、その多くが日本未公開。『シャーロック』のマイクロフト役でおなじみ、マーク・ゲティスによるBBCのドキュメンタリー『A History of Horror - Home Counties Horror』が2010年に放送されたことで、この用語が広まったと書かれている。(このジャンルについてはもう少し勉強して、後日書いてみたい)
Where to begin with folk horror | BFI
https://www.bfi.org.uk/news-opinion/news-bfi...A Guide Through the Haunting World of “Folk Horror” | Bandcamp Daily
https://daily.bandcamp.com/lists/folk-horror...ここで語られるように、フォークホラーとは「土地に根ざした恐怖」、つまり打ち棄てられた路地、寂しい水辺、暗い土地に出没する幽霊など、「フォークロア」として漠然と皆が抱いている恐怖(日本人だと『日本昔ばなし』に感じるような恐怖だと思う)と近しいものとして意識されていたサブジャンル。「ホルガ(Hårga)」という北欧の小さな村を舞台に、土着の儀式、マナーやしきたりの恐怖、不気味さが描かれている点、『ウィッカーマン』のように、異なる風習に恐怖を感じ追い詰められる点、その恐怖の源泉がある種の「美しさ」にあるところ、また舞台や建築物(ホドロフスキー『ホーリー・マウンテン』を想起したのは僕だけではないはず)、人々の服装、食事などのルックが、極めてフォークホラー的であるのは確かである。
しかしながら、気をつけないといけないのは、ルックや雰囲気の類似がすなわち構造自体をトレースしているとは限らない点である。本作においてあくまで重要なのは、そうしたフォークホラー的な状況に叩きこまれたカップルがその危機にどう対峙するのか、というサスペンス一般の物語構造に落とし込んであるところであると思う。こうした強烈なシチュエーションにおいて描かれるのは、「異なる風習、野蛮な人々、怖いですよね〜」といった抽象化の果てに他人事化できるようなプロセスではなく、そうした外部因子を前にした「普通の人々」の激しい反応である。異常な状況が、観客の立脚する現実と地続きになる。そうしたストーリーテリングが自覚的に行われているが故に、フィクションにおける他人事の恐怖が本質的になるのだろう。
あるサブジャンルの中で作られた映画が、ある種の俯瞰目線による越境とアマルガム的な交配行為を以て、そのジャンルの限界を打ち破り拡張するような傑作になることがある。アリ・アスターは既に二度もこの快挙を成し遂げており、ジャンル映画における本当の革命家だと思う。この監督はいずれより大きなプロップス、例えばカンヌやオスカーなどをものすることになるだろう。それほど、普遍的な強さのあるドラマだった。