アメリカの独立系映画の一ジャンルで、低予算かつリアルな人間関係や感情を描く映画スタイル。セックスや人間関係の脆弱さを率直に描写し、従来のハリウッド映画とは異なる表現方法を持つ。グレタ・ガーウィグやマーク・デュプラスなどの若手映画作家が牽引し、現代の恋愛映画に新たな視点をもたらした。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
ジョー・スワンバーグ&グレタ・ガーウィグ『ナイツ&ウィークエンズ』
マンブルコアとか映画館で観てると、どれだけちんちんやおっぱいが出てこようと「これを、ポルノとは、呼ぶまい」と固く誓う観客同士の無言の連帯を感じること が出来る。というのは半分冗談ながら、しかし物語における「セックス」の持つ意味があまりに大きいという自覚も、その連帯の礎となっているであろう。
元々本作は済東鉄腸さんのブログ記事で知り(基本、マンブルコアについては、このブログを一通り読んでおけば良い)、今年のグレタ・ガーウィグプチ映画祭でようやく観ることが出来た(他は全部観てた)。引用元のインタビュー記事なども追うと、スワンバーグとグレタ・ガーウィグの共同作業は、結果的に心底酷い状況に陥ったのは確かなのだろう。「幸せなカップルの映画」という構想は前半で挫折し、大喧嘩の末3ヶ月も口を利かず、再始動したのは一年後。そこから実際の時間経過同様、劇中の一年後にあたる後半を撮影したという。おそらくその結果、顕になった現場や人間関係の破綻が、劇中の二人の越えられない心理的な隔たりとしてフィルムに焼き付いているはず。維持できなかった遠距離恋愛が壊れ(維持できなかった共同作業が壊れ)、二人の社会的な立場などにも差が出来ていて、そんな現実をどのように処理して良いのかわからないから、一人さめざめと涙を流すグレタ・ガーウィグには、もうセックスしか残されていない。
『ハンナだけど、生きていく!』で、あれほど肉感的で奇跡のように美しい濡れ場を観ている我々は、ホテルの独り身には少し大きいが、二人だとちょっと狭いベッドを取り囲んだあまりに切ない時間を、「セックス」という魔法が解決することを望んでいる。鏡の前でドタバタと思い悩み、ブラ一枚?肩紐垂らす?両方の?寄せる?いっそ片乳だす?みたいに逡巡する時間は、コミカルである一方、ここから始まる凄まじい戦いの前触れであることは火を見るよりも明らか。しかし、「それ」は起こらない。そして、この映画は「それ」が起こらないことを描いていたのだった。
マーク・デュプラス&サラ・ポールソン『ブルージェイ』/弱さそのものを主題とすること
「今世紀最高の恋愛映画である!」とかブチ上がりそうになるが、これは40代後半の自分が観るからそうなるのであって、若い頃はもっとキラキラしたものを観ていてよい。そうすることを薦める。髭面で冴えない風体のジム(マーク・デュプラス)が近所のスーパーで酒を物色していると、かつての恋人であるアマンダ(サラ・ポールソン)に遭遇する。勇気を振り絞ってコーヒーに誘い、近所のカフェ「ブルージェイ」に落ち着くと良い雰囲気で話もそこそこ盛り上がる。かくして、二人はジムの実家で、各国のビールを呑みながら思い出話に耽るわけです。
終始、二人は楽しい夜を過ごすのだが、一皮剥けば小さな傷口が疼いている。割と早々に、それこそ実家に到着するよりもずっと前に、ジムが現在職を失ったばかりであることが判明する。何度もささやかに涙を流しながら、それを笑い飛ばす彼の姿に動いた感情が、彼らの別れを少しずつ先延ばしにしていく。楽しかったかつての思い出、懐かしい品の数々に笑い転げながら、外側の見えないところでまだ開いた傷口が、彼らを痛めつけていることに我々は気づかない。
そんな二人が、何故別れたのだろう。彼らの間に立ち込めている黒雲を観ないふり。夫婦ごっこでチークダンスを踊りながら、流れる音楽は今の二人の心を完璧に代弁しているかのように聞こえるのに、気づいているのか全く気づいていないのだろうか。二人を決定的に傷つけた出来事を迂回しながら、享楽的な夜の闇が毛布のように彼らを包みこんでいる。
アメリカの恋愛映画に、マンブルコアがもたらしたものは「弱さそのものを主題とすること」だと、改めて感じた。とは言え、この映画からマンブルコア的なものは何も感じない。完全にプロフェッショナルにコントロールされたマーク・デュプラスとサラ・ポールソンの会話劇は、信じられないほど楽しく、美しく、 悲しい(特に、サラ・ポールソンは良いと思ったことがなかった。本作がベストだと思う)。