映画界で活躍する女優で、ミア・ハンセン=ラブ監督作品『ベルイマン島にて』で印象的な演技を見せた存在。映画監督トニーとともにベルイマン島を訪れ、創作活動に没頭する芸術家的な役柄を演じ、現実と虚構が交錯する物語の中心的な役割を担っている。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
フィリップ・シーモア・ホフマン『誰よりも狙われた男』
ジョン・ル・カレの原作を、アントン・コービンが監督したスパイ・サスペンス。ある不法入国者の存在を知りながら、より大物の逮捕に繋げるために泳がせているテロ対策捜査官のギュンター(フィリップ・シーモア・ホフマン)。諜報部員たちの暗躍と、種々の組織の思惑と、登場人物たちの行動が交錯して複雑化し、付いていけなくなることもし ばしばのスパイ映画にしては、ここまですんなり理解できていいの?と訝しくなるほど明快な話運びでスッキリと見れたのには驚いた。
捜査と工作で浮かび上がってくる事実を、針の糸を通すかのような操作で繋ぎ合わせ、真実を手繰り寄せていく。到底うまくいくような代物ではないこの案件が、「ちょっと無理しすぎ」なトライアンドエラーの末の顛末に、俺も「F**K!!!!」と叫びそうになるぐらいの衝撃を受けた。余韻の尺も丁度いい。もう酒飲んで忘れたい。そんな気持ちになった。
フィリップ・シーモア・ホフマンが本気で具合悪そうで心配になったが、これが最期の出演作。ニーナ・ホス、レイチェル・マクアダムス、ウィレム・デフォー、ロビン・ライト…と次から次へと名優が登場して、制作費が心配になる。ところで、ヴィッキー・クリープスは何度見てもアルバ・ロルヴァケルと見間違うし、アルバ・ロルヴァケルは何度見てもアンドレア・ライズボローと見間違う。ただ、アンドレア・ライズボローは、何度見てもアンドレア・ライズボローだと思うので、この勝負に関してはアンドレア・ライズボローの優勝です。
ミア・ハンセン=ラブ『ベルイマン島にて』/そして映画は更新され続ける
ずっと観たかったミア・ハンセン=ラブ『ベルイマン島にて』を観る。重層的で感傷的な俺の観たかったミア・ハンセン=ラブだ。もうこういうタイプの映画は撮るつもりがないのかもな、って思ってた。『未来よ こんにちは』とか『それでも私は生きていく』とは、明確に異なる何かを感じる。とは言っても、それは物語を支えている縦糸と横糸の量が多かった、という物量の問題なのかもしれない。
映画監督のトニー(ティム・ロス)とクリス(ヴィッキー・クリープス)は創作のために、自分たちが愛するベルイマンが暮らし、その傑作の多くで舞台となったフォーレ島にやってくる。アサイヤスとミア・ハンセン=ラブの関係を知っていれば、主人公カップルが何を模しているかは一目瞭然である。知名度にも年齢にも差のあるカップル。物語は徐々にクリスの視点から、家庭を蔑ろにしたベルイマンの人格への違和感、そして「男性は9人の子どもは産めない」といった性差を礎にした社会構造の歪さを顕にしていく。
空港で失くしていたサングラスを買い直し、トニーからの借りを清算する。過去の作品が上映され、地元の観客に講釈するトニーをよそに、学生とドライブしてシャンパンを空けビーチでクラゲを手掴みする。置いてきた娘のことを思い出して寂しくなる。そんないくつかの不安や興奮を通して、クリスの「拷問のような」創作が少しずつ前進する。
この映画の後半は、クリスの構想している未完成の物語で構成されるというのが特殊なところ。ミア・ワシコウスカとアンデルシュ・ダニエルセン・リーによる再会と別れの物語は、同じ島を舞台にしている。現実と虚構が交錯する物語。クリスが抱えた強烈な違和、強烈な欲望、強烈な恋慕といった現実が物語に反映され、物語は現実に侵食する。その生々しい強度に圧倒されたのか、そもそも興味がないのか、トニーは彼女の創作物と向き合うことを拒否する。
映画の終盤、いくつかの虚構が集結して嵐のように混沌を巻き起こす様は、純粋な創作の現場を彷彿とさせる。純粋であるが故に、苦しみと喜びに満ちた創作の現場よ。劇中劇で描かれる「3日間の物語」のように、ベルイマンの暮らした島で、クリスのイマジネーションが瞬間的に燃え上がる様。それこそが、この映画に焼きついている衝動そのも のなのだと理解した。