フランスの映画監督であり、独自の映画美学を持つ作家。時間の経過や人間関係の変化を繊細に描く作風で知られる。『すべてが許される』『グッバイ・ファーストラブ』などの作品で、若者の内面や社会の変容を静かに、しかし力強く表現している。芸術と日常、変化と持続性のテーマを追求する現代映画の重要な作家の一人。
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ミア・ハンセン=ラブ『ベルイマン島にて』/そして映画は更新され続ける
ずっと観たかったミア・ハンセン=ラブ『ベルイマン島にて』を観る。重層的で感傷的な俺の観たかったミア・ハンセン=ラブだ。もうこういうタイプの映画は撮るつもりがないのかもな、って思ってた。『未来よ こんにちは』とか『それでも私は生きて いく』とは、明確に異なる何かを感じる。とは言っても、それは物語を支えている縦糸と横糸の量が多かった、という物量の問題なのかもしれない。
映画監督のトニー(ティム・ロス)とクリス(ヴィッキー・クリープス)は創作のために、自分たちが愛するベルイマンが暮らし、その傑作の多くで舞台となったフォーレ島にやってくる。アサイヤスとミア・ハンセン=ラブの関係を知っていれば、主人公カップルが何を模しているかは一目瞭然である。知名度にも年齢にも差のあるカップル。物語は徐々にクリスの視点から、家庭を蔑ろにしたベルイマンの人格への違和感、そして「男性は9人の子どもは産めない」といった性差を礎にした社会構造の歪さを顕にしていく。
空港で失くしていたサングラスを買い直し、トニーからの借りを清算する。過去の作品が上映され、地元の観客に講釈するトニーをよそに、学生とドライブしてシャンパンを空けビーチでクラゲを手掴みする。置いてきた娘のことを思い出して寂しくなる。そんないくつかの不安や興奮を通して、クリスの「拷問のような」創作が少しずつ前進する。
この映画の後半は、クリスの構想している未完成の物語で構成されるというのが特殊なところ。ミア・ワシコウスカとアンデルシュ・ダニエルセン・リーによる再会と別れの物語は、同じ島を舞台にしている。現実と虚構が交錯する物語。クリスが抱えた強烈な違和、強烈な欲望、強烈な恋慕といった現実が物語に反映され、物語は現実に侵食する。その生々しい強 度に圧倒されたのか、そもそも興味がないのか、トニーは彼女の創作物と向き合うことを拒否する。
映画の終盤、いくつかの虚構が集結して嵐のように混沌を巻き起こす様は、純粋な創作の現場を彷彿とさせる。純粋であるが故に、苦しみと喜びに満ちた創作の現場よ。劇中劇で描かれる「3日間の物語」のように、ベルイマンの暮らした島で、クリスのイマジネーションが瞬間的に燃え上がる様。それこそが、この映画に焼きついている衝動そのものなのだと理解した。
ドラマ版『イルマ・ヴェップ』/絶望を乗り越えて、諦めの涅槃へ
オリヴィエ・アサイヤス自身がリメイクすると聞いても、「なんで今更?」と、ほとんど期待することなく、ただオリジナル版が大好き過ぎるので、視聴が義務化していたHBO版『イルマ・ヴェップ』。全8話。前例がないわけではない(『荒野のストレンジャー』とか?)が、『イルマ・ヴェップ』のセルフリメイクが特殊なのは、オリジナル版があまりに歪なので、やり直したいという気持ちは分かるものの、ファンはその歪さに何物にも代えがたい魅力を感じているので、どのようなアプローチでも魅力は目減りしてしまうような気もしているからである。
視聴を開始し始めると、なるほど、アサイヤスのやりたかった『イルマ・ヴェップ』が見えてきて興味深い。フイヤード『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』のリメイクというメインストーリーを、現代的に置き換えながら、丁寧に進めていく様が存分に確認できる。オリジナルにあったいくつかの重要な要素、例えば居心地の悪いパーティーや、衣装係のアプローチ、そして何より難航し混乱していく撮影現場などは、より複雑にその形を残しているが、イルマ・ヴェップを演じる主人公は、マギー・チャンからアリシア・ヴィキャンデル演じるミラ(Miraは、Irmaのアナグラム)に代わり、キャラクターに引っ張られるように物語の重力も変化していく。
アサイヤスは『イルマ・ヴェップ』をきっかけにマギー・チャンと交際を始め、そのまま結婚するも、数年で離 婚している。その前提を知っていると容易に想像はつくのであるが、物語は作中監督であるルネ・ヴィタール(ヴァンサン・マケーニュ)を神託者として、アサイヤスの個人的な話とリンクし始める。ルネ・ヴィタールは過去にも『イルマ・ヴェップ』の映画化を試みており、その主演女優で中国系(!)のジェイド・リーと結婚し数年で離婚(!)、未だに彼女の影を追い続けている。ちなみに、本作でもアサイヤスは、マギー・チャンに出演オファーしていたとのこと。
更に、フイヤードと初代イルマ・ヴェップであるミュジドラの回顧録も挿入され、フイヤード=ルネ=アサイヤス、ミュジドラ=イルマ・ヴェップ=ミラとなることで混沌が極に達すると、オリジナル版同様に、ミラはイルマ・ヴェップと同化するかのごとく、夜のパリをキャットスーツで駆け抜け、壁をすり抜けると、盗みを働く。そのとき鳴るのがサーストン・ムーアによる劇伴であるが、マギー・チャンによるオリジナル版の同種のシーンでも、鳴っていたのはソニック・ユースであった。
この物語は、どこへ向かうのか。当然、オリジナル版の展開が補助線となる。アプローチとして、それに忠実であるか、それとも逸脱したり、乗り越えていくのか。このドラマでは「オリジナル版が遂に成し得なかったことを如何にして成すのか」という問いにいよいよフォーカスする。結果、オリジナル版が絶望の末に産み落としたあの奇跡のような混沌はアッサリと塗り替えられるが、それは現在のアサイヤスとサーストンの限界をも提示してしまう。この作品の一つの到達点であるこの「 みっともなさ」は、感動的ですらある。
到達点は自身の目で確認してみてほしい。このドラマが無謀にして勇猛なのは、到達点を超えた後の世界を収めたところにある。ここに描かれたある種の諦念、ドラマの中でルネの語る「魂」が刹那的な「花火(ケネス・アンガーが引用されている)」であるという「諦め」。監督=創造主が、フイヤードの『レ・ヴァンピール』に、ジェイド・リー=マギー・チャンに、そして「イルマ・ヴェップ」に固執し囚われようとも、作品が完成すれば、人々は散り散りにどこかへ消えてしまう。
そんな諦念に包まれたこの物語に、慎ましやかに配された若者たち。特にデヴォン・ロス演じるレジーナ(モデルはミア・ハンセン=ラブ以外に考えられるだろうか)のような、純粋で情熱的な芸術家たちに、ささやかな希望を見出すことが出来るだろう。
すべてが許される
主人公ヴィクトールと娘のパメラが集合住宅の広場でテニスラケットを手に戯れている。そのショットに突然、帰宅した妻のアネットが出現する。リニアな時間軸が突然に切り裂か れたような感触。かつてはゴダールがジャンプカットで実装したその手法が、自然な文脈で援用されるその手付き。このさりげない切り返しに、監督ミア・ハンセン=ラブの美意識が表れているように思える。
定職に就かず、かといって「芸術」に対する態度も保留し続けたまま、負け犬を気取り自堕落な生活に身をやつしていく主人公の行き着く先は、ドラッグに代表される退廃だった。形あるものは必ず失われる。「朽ちていく都市」のイメージが、元は幸せだった彼の家庭の荒廃に重ね合わされる。が、都市もまた改修され、再生していくのだ。ほぼフィリップ・ガレルのように退廃的な前半部が、娘の持つ豊かな視線に代替されていく。そうした隠喩によって少しずつ表出する隠蔽されたテーマこそ、芸術が内包している本当の価値だと思う。
変わるもの変わらないもの、長い時間をかけてゆっくりと変わっていくもの。そうした「変化」をハンドル出来ることこそ、「時間」を扱える芸術である映画の多くに見られる興味深さの源であると思っている。ミア・ハンセン=ラブも「変化」の扱いについて見事な手腕を持つ作り手だ。『グッバ イ・ファーストラブ』の長い時間をかけた変化が、我々の中で一瞬にしてもたらされるあの情動。『あの夏の子供たち』で唐突に訪れるある終焉。長編デビュー作である本作『すべてが許される』においても、同様の「変化」が一件無造作で唐突な、それでいて本当は注意深いやり方で扱われている。その注意深さは、パメラ目線になる第三部、伯母マルティーヌとの会話や、義理の父親アンドレがヴィクトールとパメラの関係を見守るふるまいなどから明らかになる。ジャンプカットのような表現上の手法が、登場人物の関係性を豊かに表現することで、物語の情感に寄り添っている。
それにしても、The Raincoatsが流れるホームパーティは尊い。上に書いてあることは全部忘れてくれ。俺はただただ、そういう映画が観たい。