映像作品を表現する言葉であり、物語性を持つ視聴覚コンテンツを指す。映画や演劇の要素を持ちながら、連続的なストーリー展開と登場人物の成長を特徴とする。『イルマ・ヴェップ』や『ツイン・ピークス』のような実験的で独創的な作品も、このジャンルの多様性と可能性を示している。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
ドラマ版『イルマ・ヴェップ』/絶望を乗り越えて、諦めの涅槃へ
オリヴィエ・アサイヤス自身がリメイクすると聞いても、「なんで今更?」と、ほとんど期待することなく、ただオリジナル版が大好き過ぎるので、視聴が義務化していたHBO版『イルマ・ヴェップ 』。全8話。前例がないわけではない(『荒野のストレンジャー』とか?)が、『イルマ・ヴェップ』のセルフリメイクが特殊なのは、オリジナル版があまりに歪なので、やり直したいという気持ちは分かるものの、ファンはその歪さに何物にも代えがたい魅力を感じているので、どのようなアプローチでも魅力は目減りしてしまうような気もしているからである。
視聴を開始し始めると、なるほど、アサイヤスのやりたかった『イルマ・ヴェップ』が見えてきて興味深い。フイヤード『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』のリメイクというメインストーリーを、現代的に置き換えながら、丁寧に進めていく様が存分に確認できる。オリジナルにあったいくつかの重要な要素、例えば居心地の悪いパーティーや、衣装係のアプローチ、そして何より難航し混乱していく撮影現場などは、より複雑にその形を残しているが、イルマ・ヴェップを演じる主人公は、マギー・チャンからアリシア・ヴィキャンデル演じるミラ(Miraは、Irmaのアナグラム)に代わり、キャラクターに引っ張られるように物語の重力も変化していく。
アサイヤスは『イルマ・ヴェップ』をきっかけにマギー・チャンと交際を始め、そのまま結婚するも、数年で離婚している。その前提を知っていると容易に想像はつくのであるが、物語は作中監督であるルネ・ヴィタール(ヴァンサン・マケーニュ)を神託者として、アサイヤスの個人的な話とリンクし始める。ルネ・ヴィタールは過去にも『イルマ・ヴェップ』の映画化を試みており、その主演女優で中国系(!)のジェイド・リーと結婚し数年で離婚( !)、未だに彼女の影を追い続けている。ちなみに、本作でもアサイヤスは、マギー・チャンに出演オファーしていたとのこと。
更に、フイヤードと初代イルマ・ヴェップであるミュジドラの回顧録も挿入され、フイヤード=ルネ=アサイヤス、ミュジドラ=イルマ・ヴェップ=ミラとなることで混沌が極に達すると、オリジナル版同様に、ミラはイルマ・ヴェップと同化するかのごとく、夜のパリをキャットスーツで駆け抜け、壁をすり抜けると、盗みを働く。そのとき鳴るのがサーストン・ムーアによる劇伴であるが、マギー・チャンによるオリジナル版の同種のシーンでも、鳴っていたのはソニック・ユースであった。
この物語は、どこへ向かうのか。当然、オリジナル版の展開が補助線となる。アプローチとして、それに忠実であるか、それとも逸脱したり、乗り越えていくのか。このドラマでは「オリジナル版が遂に成し得なかったことを如何にして成すのか」という問いにいよいよフォーカスする。結果、オリジナル版が絶望の末に産み落としたあの奇跡のような混沌はアッサリと塗り替えられるが、それは現在のアサイヤスとサーストンの限界をも提示してしまう。この作品の一つの到達点であるこの「みっともなさ」は、感動的ですらある。
到達点は自身の目で確認してみてほしい。このドラマが無謀にして勇猛なのは、到達点を超えた後の世界を収めたところにある。ここに描かれたある種の諦念、ドラマの中でルネの語る「魂」が刹那的な「花火(ケネス・アンガーが引用されている)」であるという「諦め」。監督 =創造主が、フイヤードの『レ・ヴァンピール』に、ジェイド・リー=マギー・チャンに、そして「イルマ・ヴェップ」に固執し囚われようとも、作品が完成すれば、人々は散り散りにどこかへ消えてしまう。
そんな諦念に包まれたこの物語に、慎ましやかに配された若者たち。特にデヴォン・ロス演じるレジーナ(モデルはミア・ハンセン=ラブ以外に考えられるだろうか)のような、純粋で情熱的な芸術家たちに、ささやかな希望を見出すことが出来るだろう。
ツイン・ピークス
初見は中学生の頃。大狂乱した割にストーリーも何にも覚えてなくて、辛うじて覚えていた要素を指折り挙げてみたら、「ドナ(推し)が突然タバコ咥えて留置場に現れるシーン」「オードリーがゆらゆらと踊るシーン」「ヘザー・グラハム登場」とか、見事に「女の尻を追いかけてた」状態だった。自分でもどうかと思う。
ドナの前でゆらゆらと踊るオードリー(色気の化け物)。名シーンだよね。
デヴィッド・リンチとマーク・フロストのタッグによって制作され、1990年からABCで放送された、言わずと知れたストレンジ・TVドラマの金字塔。ローラ・パーマーの死を巡ったフーダニットがめくるめく展開する前半は、唐突に見える真相の中、見事に空中分解。目的を失った飛行機がフラフラと飛んだ結果、主人公デニス・クーパーの元相棒かつライバルであるウィンダム・アールとの争いが後半の物語の中心となる。もうしがみ切られて味もしない状態なのかもしれないけど、当時から、評論の類はまるで読んでいないので、あっけらかんと思ったことを書いてみる。
「ローラ・パーマー」という大いなる空白と、乱反射
学園の女王かつヤク中のビッチであるゴトーへの各々の 虚無たる思いが、この物語を単なるミステリー、単なるホラー、といった紋切型に留まらせない、確固たる「混乱」に導いている。『ローラ・パーマー最期の7日間』を観るとよりはっきりするが、このキャラクターの混沌は些か多重人格的であり、おそらくデヴィッド・リンチの人間観に依るものが大きいのではないかと想像する(後の『マルホランド・ドライブ』『ロスト・ハイウェイ』がその薄弱たる根拠である)。ローラ・パーマーの発する魅力はプリズムの様に乱反射して、周囲の人物の運命に大きな影響を与える。
ローラを中心として円弧のように巡る業の中で、各キャラクターはそれぞれのパースペクティブに基づいた曼荼羅を描いている。例えば、オードリーは、その合わせ鏡のように配置されている。ローラ同様、邪気/無邪気を行きつ戻りつする中で周囲の歯車を少しずつ狂わせる、思考の読めない正真正銘の小悪魔として登場する彼女は、物語終盤でかすかな成長の兆しを見せる。その後の彼女が辿った運命を思い返すと、それこそ神の意志は唐突に、不可解に襲いかかってくる。大きなルールに抗った人間(たち)の末路として用意された顛末。しかし、彼女は、邪悪なものとして死んでいくのを辛うじて退けたのであろう。
ブラックロッジと老人
一連の奇異の端緒として発露した「ブラック・ロッジ」が、ウィンダム・アールの陰謀の中心的存在として描かれる後半のメインストーリー。まさしくマクガフィンとして登場した大風呂敷の一部かと思いきや、蓋を開けてみると序盤から「ロッジ」は物語の背景として機能していたことが明らかになる。最終話でのリンチ独特の美学を伴った強烈なサイケデリアは、無垢な視聴者の柔らかい部分に突き刺さったに違いない(前言撤回。中学生の俺も、最終回の強烈さだけはしっかりと覚えていたのだった)。逸話とクレジットを観る限り、もう第2シーズン後半はほぼメガホンを取っていない状態で、ここまで美学を貫けたのはどういう状況だったのだろう…。
『ローラ・パーマー最期の7日間』ではもう少し踏み込んでこの「ブラック・ロッジ」を描いているが、ここを中心として、物語に波及した「ロッジ」的な効果は、巨人、小人、老人といった浮世離れしたキャラクターとして存在させられる。特に重大な箴言は、老人の姿を借りたロッジの住人を介して行われる。そこにイタコ的な何かを見出していたのだろうと想像するが、この辺は自伝とかを読んでみるしかないのかも。
アメリカ映画への影響
改めて観ると、このドラマシリーズが、現代アメリカ映画の源流の一つであるというアイディアに異議ない(この辺のアメリカンインディーズ映画の潮流についてまとめた本があったら読んでみたいなーと思う。NYアンダーグラウンドや西海岸のシーン、マンブルコアからA24まで…)。いくつものジャンル映画のキマイラとして、メロドラマはもちろん、ホラー映画、SF、オカルト映画、コメディへの影響力もかなりのものだったんじゃないかと想像するし、もう少し波及すると、ヨーロッパや南米のマジックリアリズム的なシーンや、一部の静謐なホラー映画、または「ギリシャの奇妙な波」なんかのムーブメントにも遠い影響を与えているのかもしれないな、と感じるところはあったが、これは もっともっと探ってみる必要がありそう。
ということで、現在、リミテッド・エディションを視聴中。上記、マジックリアリズムや、サイコホラーからの影響を逆輸入的に反映しているのもビックリしたし、もう早速、「多重人格的」という見立てが暴力的に展開されていて、これを最期まで見ずには死ねない感じになってきた。全部観終わったらレビュー書きます。