若手イギリス人俳優として世界的に知名度を上げた存在。『トワイライト』シリーズでブレイクした後、インディペンデント系の個性的な作品に多数出演。『THE BATMAN』では、ブルース・ウェイン/バットマン役を熱演し、ダークでクールな演技で注目を集めた。『ライトハウス』のような実験的な作品にも意欲的に挑戦している。
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『THE BATMAN』狂人の瀬戸際で戦う新しいブルース・ウェイン
ゴッサム・シティの影に潜む「バットマン」の忍び寄る恐怖。漆黒の背景を覆い尽くす深紅の文字「THE BATMAN」と、続く重厚な冒頭の恐怖描写を観て、鑑賞の心構えを決めた。土砂降り。画面越しに感じる湿気だけで相当に鬱々としてくる気分は、その世界の住民とシンクロしているかのようで、不気味に俯く顔顔顔。嬉々としてはしゃいでいるのは悪人だけという現実を描いた、『ある戦慄』と現代のNYにおけるアジアンヘイトを掛け合わせたような暴力描写で厚塗りされていくゴッサム・シティ。俺は「ゴッサム・シティ」を観に行っている。
腐敗と暴力、恐怖に満ちた「住みたくない街ランキング」常連であるゴッサム・シティにて、ロバート・パティンソンが演じるブルース・ウェインが「バットマン」となって2年が経ったところから物語は幕を開ける。残虐な手法で次々と人殺しを行うリドラーを追いながらも、自らの「狂人性」を隠そうとしないバットマンは、悪党を殴る回数も気持ち5回ぐらい多い。ゾーイ・クラヴィッツ演じるキャットウーマンに秘密のクラブへの潜入を依頼し、準備をしながら「私の心配はしないのね」と拗ねられるぐらいのぶっきら棒が過ぎるバットマンが顔寄せ、「すわロマンティックな展開が!?」と思ったら「よし、準備完了だ」と、彼女に 装着したコンタクトレンズ型のカメラを点検していたのだ。
黒と赤を基調に、アートフィルムに近い抽象度ながら、何が起こっているのかは容易に理解できる絵作りの上手さ(2時間50分もあるから、間延びを数カ所感じたけど…)と、物語推進力として中心にしっかりと据えてられいた「謎」の引力、背景、ディティールの豊かさが、この映画の完成度を高めている。特に、狂人の生み出した恐怖の機械「バットモービル」に追われるペンギンを捉えたカーチェイス(ヒーロー映画とは思えない逆転現象)や、予告編でも確認できる暗闇でのアクションが印象的。バットマン、キャットウーマンの完璧な造形と演技に加えて、当然このシリーズの魅力の中心を担っていくであろうヴィランも、ポール・ダノ、コリン・ファレル(最初、認識できなかった)らの実力派をしっかりキャスティングしたのがちゃんと結果に反映されている。バリー・コーガンの登場にも、悪役として跳梁跋扈する日を想像して心躍った(こちらもキャスト見てビックリ)。
目の隈を黒塗りで誤魔化し、自閉と不健康の末にほとんど『Night of the Living Dead』か『Carnival of Souls』を想起させるような、暗くて青白いブルース・ウェイン。「ちょっと強いただの金持ち」である以上の能力を持たないが故に、「戦う理由」が不明瞭(存在はするものの、いくらなんでも飛躍が過ぎる)であり、その結果として正義の味方なのか、コスプレ狂人なのかが分からない。「ヒーロー」と言えども感情移入を拒む感じに、DC〜マット・リーブスが今回のバットマンを演出する意図が見えた、と思ったので、中盤以降ある事件 をきっかけに、単なるコミュ障へと風向きが変わるのがスリリングさを削いで若干残念ではあったが、ブルース・ウェイン=バットマンのキャラクターを今後掘り下げていくための布石なのかもしれない。『ジョーカー』『ワンダーウーマン1984(俺は嫌いじゃない)』『ザ・スーサイド・スクワッド』と、徐々に追い風の吹いてきたDC。マーベルではありえない真っ黒な淀みに陶酔しながら、MCUのカウンターとして機能するであろうこの新しいシリーズの今後も心から楽しみにしている。
ライトハウス
俺は好きなんだ。前作『ウィッチ』で、ベルイマン的な退廃と寂寞の中に宿る恐怖を描き出してみせたロバート・エガース。バランスが悪く不格好、決して完璧ではないけど、どうしても頭から離れない映画。『ライトハウス』を観てても、やっぱり歪だなあ、と思うけど、その徹底した美学と語り口の禍々しさに、所謂「商業映画的な完璧さ」を求めるのは無粋だなあとすら感じてしまう。壁の絵が語りかけてくるような、そんな厳然として霊的な意志がそこにはあるはず。
灯台守として人里離れた孤島にやってきた男二人。ウェレム・デフォー演じる年長の男は、ロバート・パティンソン演じる若者をこき使い掃除や重労働を押し付ける一方、灯台の灯りには決して触れさせようとしない。不満を抱えた若者。傍若無人で下品な老人。たった二人しかいない絶海の孤島で、二人は反発と協調を繰り返しながら、気づけば狂気の只中。戻ることは出来ない。
無口で、職務規約を遵守し数少な い娯楽である飲酒すら固辞していた若者が、嵐の中で徐々に調子を狂わせていく。いつのまにか彼を捕らえていた邪な想念が、単純作業の日常を異次元へと誘う。結果として彼を視点に語られているこの物語が、果たして現実のものなのか、妄想なのか、何を見せられているのか、ここがどこで、今がいつなのかすらあやふやなものとなってしまう。
どこにも辿り着かず放出され続ける精と、行き場を失って立ち止まった生。その澱みのような空間が、地鳴りのような霧笛の中で佇んでいる。用途に合わせて増改築を繰り返し、歪な形をさらけ出した住居家屋。屁を放る老人。夜中煌々と輝く光の奥に、異形の何かを想起してしまう禍々しさを湛えた灯台。そこかしこに死と性的倒錯の匂いが充満している。初日にベッドの中から掘り出した半裸の人魚像は、若者が日夜没頭する自慰行為の助けとなる。一方で、彼が目撃することになる幾多の死。水道ポンプからは血の匂い。水は、彼に死を引き寄せてくる。そして、嵐がやってくる。
正方形のフレームに窮屈に収められた全編モノクロームの光景は、非常に洗練されていて静謐である。冒頭、ほとんどかすかなノイズ、一面の灰色にポツンポツンと描かれた鉛筆画のような短い線の集まりが、徐々に二人を乗せた船の形を成していく。静かに佇む島に不格好に存在する家屋、そして灯台の上を、カモメの群れが飛び交う悪夢的なイメージ。ぬらぬらと禍々しさを湛えた魚介類のイメージ。願わくば、その究極であったラストシーンのイメージが、真に独創的であったならな、と高望みをしてしまった。しかし、それが達成された 時に、ロバート・エガースは本当に傑作をものしたことにはならないだろうか。