『VENUS/ヴィーナス』と『サブスタンス』を立て続けに観て、それぞれの感想はそれぞれあるんだけど、これを連続で観た意味、みたいなことを考えている。流石に『サブスタンス』の今日的バッキバキな映像美と比べると二段も三段も劣ってしまう『VENUS』だが、主演女優の身体性には肉薄するものがある。この主人公の異様な美しさ、とんでもねえ肉体が、呪われたビルの中に降臨するという異物感についての物語でもあって、その側面は『サブスタンス』にも確実に息づいている。それこそ「ルッキズム」と混同されたら困る(『サブスタンス』を巡るSNS上の言論とか、マジ窮屈で終わってるので)し、もっと恐ろしいのは、これは本気でやると「ルッキズム」を真顔で踏み抜く必要がある、という話なところ。「ルッキズム」なんです、これは。そんで、「ルッキズム」の勝者が、社会をぶっ壊すポジティブな側面を描いている、とすら思ってる。だから難しい。
同時に、筒井康隆『敵』を読み終わり、何故か「エイジズム」に関する言説も周りに溢れていて、『 サブスタンス』と接続する。映画版とちょっと違うのは、主人公儀助の性欲が極めて強い、ということがはっきりと示されているところで、そこに妄執の源泉がある。妄執とプライド。本当に厄介な世界であることよ。
吉田大八監督『敵』/また今日も、生き長らえてしまった
生(性)と死のオブセッションが余生を支配している。来るべきXデーに至るまで。結果として見事、完璧にバタイユ的なモチーフが展開している。斯様に無様で滑稽なのか、我々の人生は!
主人公・渡辺(長塚京三)は、隠居状態の元仏文科大学教授。彼は、最強の名字「渡辺」(©️令和ロマン)を持つだけではなく、「フランス文学」の「大学教授」であったことに、人知れず権威を見出している。趣味がよく、都内に小綺麗な一軒家を持ち、悠々自適な隠居生活を送っていることに感じる誇り。その「誇り」は、表層的な「豊かさ」「慎ましさ」からは隠匿された場所で、下卑た感情と接触している。何度も繰り返し描かれる食事のシーン。朝食で魚を丁寧に焼き、自ら串に刺した鶏肉を卓上の七輪で夕餉に炙っている姿は、まるで「丁寧な生活」の見本であるが、それは凶器のように美しい元教え子(瀧内公美)の肢体や、老人である彼からすれば年端も行かぬ女学生(河合優実)の無邪気な好奇心や憧れに対して、性的に接続した優雅さなのである。
その優雅な余生を送る老教授・渡辺だが、食べる時と話している時以外は一転、まるで死んでいるように見える。「死のいとこ」である睡眠時、昼のひとときが嘘のように、悶え苦しんで倒れた死体がベットの上で、今日もまた生き長らえてしまった。こうして、死と肉薄する瞬間に、せん妄のような悪夢が現実と見紛うばかりに襲いかかる。亡くなった妻への恋慕を悉く失念し、若い女たちに文字通り「鼻の下を伸ばす」時、生への渇望は蘇り、「敵」=死を前にした老人が醜態を晒していく。そうした、人であるが故の醜さが、知的な人生を蝕み矜持を奪った後に、暗転する。ここに描かれているのは、そんな人生の黄昏である。