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すべてが許される

主人公ヴィクトールと娘のパメラが集合住宅の広場でテニスラケットを手に戯れている。そのショットに突然、帰宅した妻のアネットが出現する。リニアな時間軸が突然に切り裂かれたような感触。かつてはゴダールがジャンプカットで実装したその手法が、自然な文脈で援用されるその手付き。このさりげない切り返しに、監督ミア・ハンセン=ラブの美意識が表れているように思える。

定職に就かず、かといって「芸術」に対する態度も保留し続けたまま、負け犬を気取り自堕落な生活に身をやつしていく主人公の行き着く先は、ドラッグに代表される退廃だった。形あるものは必ず失われる。「朽ちていく都市」のイメージが、元は幸せだった彼の家庭の荒廃に重ね合わされる。が、都市もまた改修され、再生していくのだ。ほぼフィリップ・ガレルのように退廃的な前半部が、娘の持つ豊かな視線に代替されていく。そうした隠喩によって少しずつ表出する隠蔽されたテーマこそ、芸術が内包している本当の価値だと思う。

変わるもの変わらないもの、長い時間をかけてゆっくりと変わっていくもの。そうした「変化」をハンドル出来ることこそ、「時間」を扱える芸術である映画の多くに見られる興味深さの源であると思っている。ミア・ハンセン=ラブも「変化」の扱いについて見事な手腕を持つ作り手だ。『グッバイ・ファーストラブ』の長い時間をかけた変化が、我々の中で一瞬にしてもたらされるあの情動。『あの夏の子供たち』で唐突に訪れるある終焉。長編デビュー作である本作『すべてが許される』においても、同様の「変化」が一件無造作で唐突な、それでいて本当は注意深いやり方で扱われている。その注意深さは、パメラ目線になる第三部、伯母マルティーヌとの会話や、義理の父親アンドレがヴィクトールとパメラの関係を見守るふるまいなどから明らかになる。ジャンプカットのような表現上の手法が、登場人物の関係性を豊かに表現することで、物語の情感に寄り添っている。

それにしても、The Raincoatsが流れるホームパーティは尊い。上に書いてあることは全部忘れてくれ。俺はただただ、そういう映画が観たい。

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