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由宇子の天秤

「これは、この状況は、まさに天秤だ…」と鑑賞中に思わされたら制作者の勝ち。河原の道を大きく2つに分ける鉄柵の前で、たった一言のナレーションを前に逡巡する主人公を観て、そう感じた。春本雄二郎監督『由宇子の天秤』、英題が「A Balance」。見事なタイトルだと思う

主人公・由宇子(瀧内公美)は、学校におけるいじめとそれに伴う報道被害についてのドキュメンタリーを制作している。教師との交際を噂され、それを苦に自殺した女生徒。そして、その後を追うように自らも死を選んだ教師。しかし、彼女のカメラは、そうしたいじめや学校の告発そのものだけではなく、その後の報道によって狂わされていく人々の苦悩をも必然的に捉えてしまう。そうした「真実」に基づく彼女の正義感は社会との軋轢を生み、信頼するクルーとの社会的立場の差も浮き彫りにする。社会的な妥協や忖度を「邪悪」として捉える彼女の正義感は、各種の緊張状態を生み出している。

元々、春本監督の長編デビュー作『かぞくへ』を観たのも、単に「予告編が良さそうだったから」以上にこれと言って特に理由もなかったのだが、観終わった後は作品の持つ謎の風格(この風格は、二ノ宮隆太郎監督や、深田晃司監督作品の持つものに近い)と純粋な面白さ、そして鑑賞後の舞台挨拶で垣間見えた細部に至るまで徹底的に構築された論理展開に、「次回作を絶対に観るべき監督リスト」に春本監督の名を速攻追加した。あれほど重厚なサスペンスに見えていたのに、家に帰って我に返ってみたら、実は何のことない「結婚直前あるある映画」だったことに気づいて、だからこそなおさら好きになる…そんな作品だった。

しかし、本作『由宇子の天秤』は、その重厚さを文字通りのものとした。由宇子の眉間のシワは、いつでも戦闘の只中にいることを意識させられる。戦闘服としてのミリタリーコートを着込み、柔和さを見せるのは職業スキルの発露としてのみで、通常は常に喧嘩腰、周囲と分厚い壁を築いているように見える。気に食わないことがあれば、自身の昼食にも唾を吐き、やる気のない薬局店員の胸ぐらを掴み、もたつく老人への苛立ちを釣りのいらぬ紙幣に叩きつける。

その武装が解除されるのは、父親の経営する学習塾で講師を勤める時などごくわずか。彼女が別の顔を見せるそうした非武装地域で、思いもかけぬ悲惨な事態が巻き起こる。その時、図らずも自身の制作しているドキュメンタリーが反転したような状況に、当事者として彼女が巻き込まれることになってしまう。それはもう、誰もがわかるように反転していて、小難しく煙に巻かれることなどない。真実を追うことが正義だと考える彼女が、すがるように嘘を利用しようとするその姿を、観客は目撃してしまう。

「腕時計」が、物語の序盤からクライマックスまで、由宇子の内面の揺らぎを推し量るためのガイドとなる。彼女の正義感の有り様を象徴しているこの決して時間の狂わない腕時計が、誰の手に渡るのか、もしくは渡らないのか、が、物語全体を通して由宇子の倫理観のバロメーターとなっている。

ドキュメンタリー作家として、「暴力装置としてのカメラ」の効能に、嫌でも向き合わざるを得ない。「お前は、本当に、恥ずかしくないのか」。彼女はそう他者に問う。そういう意味で、正しくはカメラを向けられた何人かの名が冠された「○○の天秤」として記されるべきいくつかの場面が存在する。真実と嘘の綱渡りの末、最後に由宇子は誰にカメラを向けるのだろうか。


どうしてこんなことが可能だったのか。主演の瀧内公美や河合優実も前評判に違わぬ存在感だが、脇を固める出演陣も強力。スターバイプレイヤーの光石研はもちろんのこと、『岬の兄妹』の二人、松浦祐也と和田光沙が被害者側の要所をガッツリ締めているし、ドキュメンタリー班も川瀬陽太に木村知貴と、好事家からすると日本映画を支えてるオールスターキャストのような状態。絶対に手抜きしない人たちのもたらす安心感。そんな中で『かぞくへ』からの続投となった梅田誠弘の演技がまたしても素晴らしかった。「とりあえず一番手前に来ている選択肢としての笑顔」を浮かべながら、全く覇気の感じられない父親は実在する。監督本人の主催する「春組」ワークショップからの出演者(あの不愉快なテレビ局員たちの異様なクオリティよ…)含めて、一人残らず演技のクオリティが高かった。

つまらない結論だが、正直、今の自分にはケチのつけようがない傑作としか思えない。春本監督は「次回作を絶対に観るべき監督リスト」にしばらく残り続けることになると思います。

MCATM

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