Post

ドライブ・マイ・カー

朝焼けを背景に、全裸の女性が断片的な物語を訥々と語る『千夜一夜物語』のようなシーンで映画は幕を開ける。村上春樹による同名短編を原作とした、『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』の濱口竜介監督作品。原作を収めた短編集『女のいない男たち』に収録された『シェエラザード』という作品に由来するこの情景は、同じく村上春樹が原作のイ・チャンドン監督作『バーニング』の、ゆらゆらと踊る半裸の女性を臨む夕焼けを思い起こさせる。

ストーリーに関する予備知識無し。間延び覚悟で鑑賞したら、序盤から圧倒的な情報量で退屈する間などないまま、三時間という上映時間があっという間に過ぎた。西島秀俊、三浦透子、岡田将生、霧島れいから主要キャストのみならず、様々な国籍の役者を含むキャスティングは細部に至るまで完璧に近いものがある。撮影は『きみの鳥はうたえる』で印象的な朝焼けを撮った四宮秀俊。石橋英子による劇伴は、ジム・オルーク、山本達久のカフカ鼾チームも参加し、タイミング・音色・音程含めて欲しいものが鳴っている快感があって悶絶した。以降、ネタバレを避けて書くのが難しいため、あんまり意識せず書きます。いくつかの重大な出来事は伏せているので鑑賞前に読んでも問題はないはずだが、保証はできない。というか、完全に情報をシャットアウトしたい人はこんなところ覗かないだろうという、希望的観測がある。そういう方は、観てから覗くべし。


背に光を浴びた全裸の妻。顕になった背中から臀部が映る背面と正面が交互に映し出され、その傍らに西島秀俊演じる主人公家福(かふく)が横たわる。その後も強調される極めて肉感的な夫婦像には、肉欲の所在が意図的に示されているはず。ここに映し出されているのは、艶めかしい夜の記憶と、創造の瞬間の恍惚、そして着衣(もしくは「非」着衣)についての描写である。

劇中何度か登場する「着衣」にまつわるディティール。紐を解いたズボンがずり落ちてくるシーンが引用される『ゴドーを待ちながら』を演じる家福。終演後、(ブレッソンのような即物的カメラワークで)脱いだ舞台衣装を椅子に放り投げる家福が、楽屋に訪れた妻の音(おと)とその連れの俳優・高槻を「着替えるから、また後で」と追い出す。衣装と役を脱ぎ捨て「私」に戻るための行為が、「妻が書いた脚本で役を演じる若い男性俳優」として現れた男に対する一時的な拒絶に至る。その高槻が後半の極めて重要な局面で、改めて「着衣」について言及するシーンでも同様、ある種の時間的な断絶が発生している。もしくは、原作にあるように「演じ終わる」ということ、そして演じ終わった後は前にいたのとは少しだけ違う地点にいること。着衣/非着衣(裸)の対比は、夫婦の間に漂う必要以上の肉感、更に言えば性行為の後に妻の語る物語における、山賀の家に主人公が残していく「徴」とも接続している。

そして、。「サウンドの『音』」と描写される亡き妻の名前でもある「音」は、たびたび流れを切断する。オーディションでアーストロフを演じる高槻が暴走し、相手役の女性に対して攻撃的なまでの高ぶりを見せたその瞬間、椅子から立ち上がった家福の立てた「ガタン」という大きな音が、二人の演技を強制的に停止させるが、その瞬間、家福の姿は映し出されることはなく、そこにはただ「音」だけがある。子どもが投げたフリスビーがみさきの話を中断する時も、やはりまずは「音」だけが飛び込んでくる。時間の裂け目において、亡き妻がそのかすかな存在感を亡霊的に主張しているようにも思える。『シェエラザード』同様、この映画のプロットとして援用される村上春樹の短編『木野』の中でも、主人公は滞在先のホテルの一室で、この世のものではなさそうな何かがドアをノックする激しい音に追い詰められるが、本作で本読みの最中に次のセリフのきっかけとして用いられるのも、机をノックする音である。外挿される「音」が断絶を引き起こし、意志を持って発せられる「音」が継続を促している。

肉体を持った人間たちが、意識的に物語を持続させるための方法として、ここでは徹底的な反復練習が採用される。そのために、家福は、自らドライブして(I drive my car)、その最中に亡き妻が吹き込んだ『ワーニャ伯父さん』を何度も何度も繰り返し聴き、併せて自分のセリフを反芻する。このときのドライブは、彼の「仕事」と密接に結びついていて(「仕事」という言葉もまた、劇中何度か発せられる)、この反復の中で彼は、本人以外のセリフを受け持っていた妻が亡くなった以上、円環に囚われ『ワーニャ伯父さん』から先に進むことが出来ない。そこに現れるのが渡利みさきという無口で無愛想なドライバーである。妻の死後、彼が制作を請け負った広島でのワークショップでも、その反復に閉じ込められていたはずの家福だが、顔に目立つ傷のある若い女性である彼女は、家福の車を運転する(Drive my car)ために雇われ、家福は徐々にその運転技術を高く評価するようになる。それをきっかけに二人の心の距離、そして物理的な距離は縮小し始める。後部座席から助手席へ、吸った煙草を車外に掲げて二人は、物語を持続・反復させていくような共犯関係を築き始める。

さて、果たしてこの映画の「主題」とは一体何なのだろうか。妻の死がもたらした喪失感は、家福の眉根に寄った皺という形で、影響力の大きさを物語っている。もしくは、彼が目下のところ取り組んでいる、『ワーニャ伯父さん』が、果たしてどのような形で結実するか、というのも十分大きな主題と成り得る。車中で音声として繰り返し流れ、劇中劇としても演じられる『ワーニャ伯父さん』は、原作で出てくる以上の大きな意味を持ってメインストーリーを下支えする。「ショーペンハウエルにだって、ドストエフスキーにだってなれた」と嘆くワーニャのシーンは、彼が一生を捧げた相手が、自分のことを歯牙にも掛けていなかったことに気づき、絶望するシーンである。その絶望を背負い「60で死ぬとして、これからあと13年生きなくちゃならない」と嘆くワーニャに、「当時の人たちはだいたい60で死んでいた。ワーニャ伯父さんは今の時代に生まれなくて良かったかもしれない」と言うのは原作での家福であるが、そうした「死ぬまで持続する絶望」についての家福の思いが詳らかにされている。

絶望が、持続する。関係が壊れるのを恐れ、目を背け続けた妻の裏切り。「今日帰ってたら、少し話せる?」と告げたその妻は突然亡くなり、一生聞くことの出来ない秘密の告白。家福が知らなかったシェエラザードの物語の続きを知り、すなわち肉体的な繋がりを否定すらしないのに、憎しみの対象であることも認められない高槻は彼に告げる。「ある人をすっかり知るなんてことは出来ない。自分自身を深く見つめるしかない」。のっぴきならぬ状況が訪れ、言葉通り本当に自分自身に向き合うしかなくなったその瞬間に、ロードムービーが動き出す。その終着点では、小さくバラけていた真実のパーツが揃い、それによって観客はこの映画の主題がどこにあったのかに気づかされるのだが、その時、最も驚くべきことに、主人公である家福もほぼ同時にそのことに気づいて嗚咽する。そうすることに何の疑いもないように抱き合うみさきと家福は、親子のようにも見える。みさきの23歳という歳は、家福と音の死んだ娘の年齢でもあることが、物語の序盤で語られている。

物語のクライマックス。再びワーニャ伯父さんを演じる家福は、序盤で移ろいだ時のような不安な様子もなく、しかし激しく役に入り込んでいる。チェーホフの原作同様、彼を最後に救済するのは不器量な姪ソーニャである。ソーニャは韓国手話で、彼に話しかける。「でも、仕方がないわ、生きていかなければ!ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、果てしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。」言葉ではなく、手の、指の先を見つめながら、家福は複雑な表情を浮かべる。やはり、ワーニャは荷が重い。ここでも家福は、芝居に問いかけられているのだから。


補足

  • 『ワーニャ伯父さん』の登場人物ソーニャは不器量という設定ですが、演じるパク・ユリムさんは大変お美しい方です

  • 劇中で語られる物語、「前世がナツメウナギ」というモチーフは『シェエラザード』より。ただ、印象的な「部屋にやってきた人物の正体」や「監視カメラ」の件は本作オリジナルで、これも実は「持続と断絶」という視点を持っている物語だと思いました。「人物」の、「世界」の、反復

  • 逆に、原作でも出てくる緑内障の件を改変したのは意図がよくわからなかった。「運転できない」で全然良かった気がする

  • 結局、原作『ドライブ・マイ・カー』『シェエラザード』『木野』、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』全部読んだんですが、どれも凄く面白かった。

  • 3つの短編の「女性」を一人に束ねて、その結果発生する副作用をきちんと引き受けつつ、前作でも取り扱ったチェーホフをしっかりと膨らませて絡めながら映像化するって、改めて言うまでもないがちょっと尋常じゃない才能だと思いました。体感2時間よ

もっと読む