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『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』/崩壊していく内なる世界をつなぎとめるもの

黒い線が円を描く。ブラックホール。コインランドリーに並ぶドラム式洗濯機。不機嫌そうなボールペンの軌跡が領収書に描く円。薄暗い部屋でカラオケを楽しむ家族を映す丸い鏡(母が口を塞ぐが、それでも歌い続ける娘)。そして炭化したように見える漆黒のベーグル。全てを吸い込んでしまいそうなその小さな深淵に、数多の平行世界が切り取られる。

人は、個人的な世界を持っている。お互いの内なる世界同士の距離を適切なものに調整し続ける行為を、すなわち「他人との生活」と定義した時、領収書の山を前にして忙しなく動作するエヴリン(ミシェル・ヨー)に対して、大事な話があるにも関わらず詰めることが出来ない夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)の「距離」は、他者とのコミュニケーション上の衝突点として機能している。その光景も、数多の世界線が取りうる一つの選択として、鏡の描く円の中に切り取られている


『スイス・アーミー・マン』で爆笑したダニエルズ監督作品『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』。傑作ぞろいのA24における最大のヒット作にして、(A24作品ではありがちだが)日本では若干公開が遅れたこともあって、期待がパンパンに膨らんだ状態で鑑賞。前半は何が何だかわからないがとにかく景気が良く、後半は全体のテーマ的なものがいくつか見えてきたものの、やっぱり何が何だかわからないまま、ただ、何故か色んなところで泣いてる…みたいな状態に、「困惑した」というのが正直なところ。日本のアニメ(公式サイトの監督インタビューにも、湯浅政明監督作品や、『パプリカ』などのアニメ作品のタイトルが出てくる)や漫画(『スコット・ピルグリム』とその傑作実写映画、とか)の影響を隠さず、一切濃度を薄めずにケレン味と力技で押し切ったのも原因の一つ。一緒に観た仲間と中華料理屋(当然っしょ)に行く途中ですり合わせを試みたが、みんな結局のところよくわかってなかったけど、「楽しかった!」ということで意見の合致を見たのだった。

個人的な世界の崩壊に接続された世界

主人公エヴリンはある日突然、別の世界線にいるアルファ・ウェイモンドからの接触を受ける。彼曰く、このカオスと化したマルチヴァースを救えるのは君しかいない、というわけである。その邪悪の源は、ジョブ・トゥバキといって、エヴリンの実の娘ジョイ(ステファニー・スー)の姿をしている。と、言うことは、ですよ。仮にジョブ・トゥバキがジョイなのだとしたら、エヴリンとジョイ、実の母子の関係が、様々な世界線で幾様にもこじれていて、それが世界崩壊の危機を招いているというのである。これは大変だ。

そう思い返せば、日常を描いた冒頭のシーンは、エヴリンと他の人々の心の断絶を種々の角度から描き出している。ボロボロで火の車のコインランドリーを経営するアジア人一家。日々の業務に追われ、朝食の準備に追われ、中国人の父親ゴンゴンの介護に追われ、ジョイの彼女とのギクシャクとしたコミュニケーションに追われ(そして、実の娘がゲイであることを心の底から受け入れられているわけではない己の狭量さに追われ)、春節のパーティーの準備に追われ、税務処理に追われて領収書の山を前にするイヴリンは家族とまともにコミュニケーションを取ることが出来ない。その態度は、彼女の個人的な世界を崩壊へと導くことになるが、前述した通り、その「個人的な世界の崩壊」がマルチヴァースの深淵へと引き上げられているというのが、本作の基本的な構造である。

そうした「崩壊」に対してに抗う力を与えるのは、エヴリンを苛み続けた悪夢の主人公、つまりあり得たはずの自分である。アルファ・ウェイモンドの持ち込んだ装置によって、完全に常識ハズレの突拍子もない行動を取ることでマルチヴァースを「ジャンプ」する力を与えられた彼女は、その結果、多エヴリンが得た力を自らのものとする。ウェイモンドと駆け落ちしなかった世界線のエヴリンは、クンフーマスターとしてアクション映画の俳優として活躍している(まるで実世界のミシェル・ヨー)。また別のヴァースでは、鉄板焼のシェフとしてサイコロステーキを華麗に切り分ける。別のヴァースでは、歌手。別のヴァースでは、ピザ屋の宣伝担当。この多エヴリンの存在は、冒頭で描かれた税逃れのためについた嘘の数々と呼応しているが故に、嘘はバレ、土鍋は割れる。何故ならその力は、その場しのぎの嘘は、現実逃避と似た一時的で疑似的な現実の拡張であって、いずれは彼女自身のキャパシティから溢れ出てしまうからではないか。

一方で、彼女の行動は、アルファ・ウェイモンド、そして多ウェイモンドによって巧みにコントロールされている。「どの世界にいても、僕は君との人生を選ぶ」。ウォン・カーウァイ『花様年華』のように引き裂かれた関係の二人であっても、ジョブ・トゥバキに相対するレジスタンスと英雄という関係であっても、ウェイモンドはそのようにあり続ける。税務署役人のディアドラと、ドビュッシー『月の光』。娘がゲイであることを受け入れられず、老いた父親ゴンゴンに彼女の恋人をきちんと紹介してやることさえ出来ない自分。犬を連れた鼻のデカい女性客に対してだってそう。何度も出てくる端役の人たちから、『レミーのおいしいレストラン』オマージュの鉄板焼きのシェフとアライグマだってそう。周囲の皆が、エヴリンとの心の繋がりを不当に失いかけ、もがいている。超バカバカしく描かれているドタバタの気違い沙汰という表層の裏側で、世界線すらまたいだ様々な関係性が、多ウェイモンドの「親切でいて」というシンプルなその願いによって再構築されていく様が映し出されていく。

わからなさの根源としてのベーグル

エヴリンとのノンバーバルなコミュニケーション手段の一つとして、ジョブ・トゥバキが掌の隙間から見せる白の神殿には、中心に「黒のベーグル」が祀られている。このベーグルは、ジョブ・トゥバキ=ジョイの心の空虚、ニヒリズムを表象しているようにも見えるが、果たして、このベーグルの成立根拠をどこに見い出せばよいのか。その不透明さ、不確かさが、この物語の土台を不安定なものに見せている。

改めてこの「ベーグル」に対峙するとしたら、ジョブ・トゥバキの成立、つまりアルファ・エヴリンによって引き裂かれたジョイの心、からスタートするのが良さそう。アルファ・エヴリンの咎は、多エヴリンの咎として、アルファ・ジョイ=ジョブ・トゥバキによる追跡と抹殺の根拠となる。ジョブ・トゥバキ曰く、それは対立の象徴ではなく、すべての自己を消滅させるための「装置」としての黒ベーグル。多ジョイにとって、この黒ベーグルこそがグレートリセットであり、全ての母子関係を乱暴に最適化=虚無化するための装置なのである。

エヴリンの抵抗と、夫の力を借りた覚醒は、娘と黒ベーグルの決定的な接近を妨げようとする。自分たち(それは、家族であり、隣人である)の世界の距離を、適切なものに戻していく作業。娘とベーグル(諦念であり終焉)との「距離」にフォーカスしているエヴリンは、その行為の過程で、様々な距離、つまり「他人との人生」を精算する機会を与えられ、様々なバージョンを与えられた人生を文字通り”抱きとめていく”。そして、そこで再構築された人と人との関係性のサークルが、黒のサークル、つまりグレートリセットとしての虚無に身を投げようとするジョイ=ジョブ・トゥバキを救わんとする。ここで描かれているのは関係性の再構築、というシンプルなテーマを、「マルチヴァース」をきっかけに多層化した物語であり、故に、この世界は多様な視点を飲み込むことを余儀なくされる。諦念からジョイを救ったその寓意は、彼女の意思を受け止め、ウェイモンドの価値を認め、家族を一つにすることと接続されている。

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