ゲームという表現媒体は、単なる娯楽を超えて、創作者の熱量と思想が結晶化された文化的産物として機能している。 『MOTHER』シリーズのように、制作過程で「過剰に熱量を込める」ことが、作品の本質的な価値を決定づける。粘土模型の制作のような、一見無駄とも思える工程こそが、プレイヤーの記憶に刻まれる体験を生み出し、長期的な愛着を育む。 ゲームは技術的完成度だけでなく、創作者の執念や偏愛が込められた細部によって、単なるプロダクトから「作品」へと昇華される。現代のゲーム産業において、効率性や収益性が重視される中で、こうした「無駄」とも思える創作的情熱の重要性が改めて問われている。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
ブロック崩しローグライト『BALL x PIT』がかなり良いぞ
NintendoのIndie Worldで紹 介されていた『BALL x PIT』がGame Passに来ていたので、軽くプレイしてみたら朝だった。

プレイ前の「『Vampire Survivors』的な中毒性のあるサバイバル系ゲームなのかな」という印象は、実際プレイしてみると書き換えられる(『Vampire Survivors』は虚無過ぎてもうやりたくない。パチンコとか、そういう印象)。確かに中毒性はあるのだが、ブロック崩しという以上に古くは『キングスナイト』(いくらなんでも古すぎる)的なパワー系シューティングや弾幕系に近い感覚。そこにローグライトの仕組みがしっかりと組み込まれて、欲望マシンが動作するように巧みに設計されている。巧すぎる。

スピード、ダメージ、範囲、ステータス付与といった特徴を持つボール、「弾は早いが狙いが定まらない」「弾が自分に吸い寄せられる」「壁に当たるまでは敵を貫通する」など、独特の能力を持つキャラクターなど、プレイ中にも目まぐるしく変化していくいくつもの要素の掛け合わせで、リアルタイムに戦略を立てていかなければすぐに詰んでしまう。
しかし、ブロック崩しに詰んでしまっても、拠点に帰れば、さっき開始した新しいキャラクターの家の建設を進めたり、資材を収穫したりと、改めてやることが山積みで、それをやるには更なる探索が必要になり、ついつい次のターン次のターンと、気がつけば朝。まんまと制作者の掌の内。
まだプレイ時間は10時間に満たないのだが、おそらく数十時間でクリアまでは到達できるのではないか、というボリューム。やり込むための奥行きもありそうな雰囲気。ガッツリハマりこんで一気にやり込むのでも、たまに気が向いたらプレイして数時間溶かすのも良さそうな、良いゲームを見つけた喜びを噛み締めています!
https://store.steampowered.com/app/2062430/BALL_x_PIT/?l=japanese

渋谷の「空虚さ」にやられながら暴暑。妻子と合流して、渋谷で『MOTHERのかたち展』を見る。俺は以前、『MOTHER1+2』発売記念時に、渋谷TSUTAYAで見ていた粘土模型だが、間近で見ると記憶よりも大分大きくて、ディティールも細かい。つくづく「過剰に熱量を込めること」の大事さを感じてしまう。『MOTHER』というゲームを作るにあたって、粘土で模型を作ることなど、そもそも必要のない過剰な作業なのである(当然、予算の問題もある)。しかし、それをやった、ということが、創作物のここそこにしっかりと刻まれているから、このように長く愛されるものになる。
ヒューマントラストシネマに向かう前に、ルノアールで珈琲を飲みながら読書。寝落ちしていても大丈夫、何も言われない。かつては贅沢の代名詞だったルノアールも、1000円で珈琲飲んで永遠に居られるのであれば、むしろコスパ高く感じてしまう。総じて、渋谷という街が大嫌いになっていた自分を感じた。
