ゲームという表現媒体は、単なる娯楽を超えて、創作者の熱量と思想が結晶化された文化的産物として機能している。 『MOTHER』シリーズのように、制作過程で「過剰に熱量を込める」ことが、作品の本質的な価値を決定づける。粘土模型の制作のような、一見無駄とも思える工程こそが、プレイヤーの記憶に刻まれる体験を生み出し、長期的な愛着を育む。 ゲームは技術的完成度だけでなく、創作者の執念や偏愛が込められた細部によって、単なるプロダクトから「作品」へと昇華される。現代のゲーム産業において、効率性や収益性が重視される中で、こうした「無駄」とも思える創作的情熱の重要性が改めて問われている。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
渋谷の「空虚さ」にやられながら暴暑。妻子と合流して、渋谷で『MOTHERのかたち展』を見る。俺は以前、『MOTHER1+2』発売記念時に、渋谷TSUTAYAで見ていた粘土模型だが、間近で見ると記憶よりも大分大きくて、ディティールも細かい。つくづく「過剰に熱量を込めること」の大事さを感じてしまう。『MOTHER』というゲームを作るにあたって、粘土で模型を作ることなど、そもそも必要のない過剰な作業なのである(当然、予算の問題もある)。しかし、それをやった、ということが、創作物のここそこにしっかりと刻まれているから、このように長く愛されるものになる。
ヒューマントラストシネマに向かう前に、ルノアールで珈琲を飲みながら読書。寝落ちしていても大丈夫、何も言われない。かつては贅沢の代名詞だったルノアールも、1000円で珈琲飲んで永遠に居られるのであれば、むしろコスパ高く感じてしまう。総じて、渋谷という街が大嫌いになっていた自分を感じた。
「Today!」って言われて、声出た。言ってる人、マジでドヤ顔だったぞ。『Elder Scrolls 4: Oblivion Remastered』。あー、びっくりした。『カセットビースト』終わったらやるね。
『ホグワーツ・レガシー』/エピローグが続き「あいつらに会いたい」が爆発する
総プレイ時間70時間ぐらい。終わり間際になると、クリアする喜びよりも、この世界を離れなければならない寂しさのほうが勝ってた。というぐらいの傑作。大変満足。
操作性が良くないとか、いくつかの欠点を帳消しにするぐらいに作り込まれた世界。精密なグラフィック、とかそういう次元じゃないの。プレイしているうちに、スタッフの作り込み対する偏執的な覚悟みたいなものがビシバシ伝わってきて、ちょっと怖くなった。ここまで作り込んだ世界を、これ一作で使い捨てしちゃうの惜しかろうに。
そうした作り込みのおかげで、「ここに登場する人たちは…生きている…のだ」と没入する自分に違和感を感じる必要がない。先生たち、同じ寮に暮らす仲間、ホグワーツの友達、ホグズミードの人々。この人たちに会えるのはここでしかないのだという実感が、今日も俺にコントローラーを握らせる。
<ネタバレはしません>
ヴォルデモート卿は出ないから、ラスボスに不足ありの感は否めない(CGは未だ鼻を削いだレイフ・ファインズに勝てない)が、物語のヤダみと最終展開の胸熱にはなかなか立派なものがある。しかし、それ以上に嬉しかったのはラスト。すべてが終わった後のあいつらが、俺の労をねぎらってくれる。いつの間にか沢山の人生に関わってきた数十時間。廊下を歩く自分に気づいて振り返る友だちの顔が、このゲーム最大の報酬である。