古代から現代まで、芸術、映画、文化において豊かな魅力を持つ国。エトルリア文明に代表される歴史的深み、ベルトルッチやロルヴァケルといった映画監督の作品に見られる独特の美学、そして社会の変遷を映し出す鏡としての側面を持つ。建築、料理、ファッションなど、多様な文化的要素が交錯する魅力的な国土。
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アリーチェ・ロルヴァケル『墓泥棒と失われた女神』/再び世界を撚り合わせる赤い糸
失われた女神。かつての恋人をクローズアップで捉えた夢から醒めると、主人公アーサー(ジョシュ・オコナー)は女性客でいっぱいの騒然とした古い列車のコンパートメントの中。貼られたステッカーにも、ガラス戸にも、女性の横顔が配されている。それだけではない。男が登場したと思って気を抜いていたら、画角のマジックやらなんやらでいつの間にか女性にトランスフォームしていく。後に出てくる祭りの場での女装も含めて、男たちが女性に近づいていく無視できない力学が働いている。そんな不安定な場で、くたびれた上下のスーツに身を包み、隣席の女性に「壁画で見た女の横顔に似ているね」と告げる気怠く粗暴なアーサー。場面が突然切り替わると、壁画に描かれたエトルリアの女神たちの姿に、「Le Chimera」のタイトルが被り、俺は既にアバンタイトルで鳥肌が立つぐらいの衝撃を受けている。
考古学好きのアーサーは、女性中心の社会であった古代エトルリアの遺跡を霊感で探り当てる能力を持っている。その能力を利用して発掘した盗品を売り捌く生活を送る日々の彼は、ある日仲間の中で一人だけ逮捕されて服役し、刑務所から出所してきたばかりなのである。またかつてのように一儲けを目論む墓泥棒仲間たちと距離を置く一方で、行方の知れない恋人の母・フローラ(イザベラ・ロッセリーニ)を訪ねると、そこで彼女から歌の指導を受けるという名目で実質召使のように働かされる女性・イタリア(キャロル・ドゥアルテ)と出会う。
時制も虚実も不確定なこの物語は、イタリアとの邂逅を経て、驚くほどゆっくりとゆっくりとエトルリアの女性中心社会(それは「駅」を象徴的に模している)に向かって走る列車である。女が駅に集えば、男は炎を求める。「火を貸してくれ」。アーサーが離さないタバコは、彼を常に炎の方に導く。炎(タバコ)と鉄(列車)の接点が、すなわち「現世」を体現する。そこは女と男の接点なのだから。
炎は既存の文明を毀損する。墓泥棒たちがついに掘り当てる「神殿」で、その傾向が極にまで達する。その「Le Chimera(幻想)」を探り当てる能力を持つが故に、女たちの世界と男たちの世界の狭間を征くアーサー。追い求めた女神の首が落とされる瞬間、アーサーと男社会をつなぐ鎖が切れてしまう。
家の周囲に生えた二股の木を指差し、「逆さになった人間が植わったみたい」と指摘する無邪気なイタリア。アーサーがダウジングに使う枝にも存在するその「股」を使って、男たちは墓を暴く。墓にある副葬品は、当然、死者のためにあるものである。「目を楽しませるため」にある芸術と、「魂を楽しませるため」にある芸術。男と女の世界観の相違についての話は、いつのまにか肉体と魂の話に置き換えられる。女神を破壊したのは目先の欲にこだわった男の仕業だが、フローラの住む屋敷を打ち壊そうとするのは女の仕業であり、アルバ・ロルヴァケルの衝撃的な登場も同様に、前半部で丁寧に語られた男性/女性の分たれた世界観の先にあるものとして捉えられる。
世界の裏表が描かれる。その分断された世界をつなぐ一本の赤い糸。一度完全に分たれた二つの世界が、再び紡ぎ合わされる。こうして我々は、あまりにもロマンティックに「現世」が再構築されていく様子を目撃することとなる。
ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森』/普通の人生を求めるファシスト
イタリアの建物はとても大きく、広い。ベルトルッチ作品を観てるといつもそんな感想を抱く(余談ながら、でかいといえば、ティント・ブラス『カリギュラ』も、でかいよな)。その対比として、人がひしめくパリの建物は狭い。雪に包まれた森ですら、カメラが傾いていて、閉塞感すら感じる。ベルトルッチ=ストラーロによるこの圧倒的な図像芸術は、そうした空間把握が前提になっているのだと、改めて感じた。
とは言え、やはり大傑作『暗殺のオペラ』に比べると、物語の構造には少し覚束ないものを感じる。特に前半の要素が後半にどう生きてくるのかがわかりづらい作りで、再度確認してもきちんと把握できないところすらある。主人公マルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)が13歳の頃に銃殺してしまったリーノ(ピエール・クレマンティ)はわかりやすく重要であるが、そうした過ちがその後の人生にどういった影を落としたのか、の因果がわかりづらかったりする。精神病院に保護されている父親の「血」や、ひまし油の拷問といった暴力的な暗示はヒントになるが、瞬きのごとく出ては消えていく。
そうした物語の核 となりそうな主人公の心理描写は、流麗な映像表現の中でスルスルと溶け出していく代わりに画面を支配するのは、二人の女である。婚約者〜妻のジュリア(ステファニア・サンドレッリ)と、恩師にして暗殺対象の教授の謎めいた妻・アンナ(ドミニク・サンダ)。「普通」の人生を渇望するマルチェロ。それを体現するかのような平凡で母性的な魅力溢れるジュリアと、それでも「普通」でいさせてくれない運命を操るアンナ。
ムッソリーニによるファシズムが台頭する第二次世界大戦前のイタリアから、パリへ。この時代、この状況で「普通」を求め続けるマルチェロの人生が、ついに行き着いた場所。この人の決定的な弱さが露呈して、街の風景も表情も赤く染まっていくのだった。