フランスを代表する名優の一人。ベルトルッチ監督作『暗殺の森』では主人公マルチェロを演じ、「普通」の人生を渇望しながらファシズムに取り込まれていく男の姿を繊細に表現した。トランティニャンの抑制された演技は、精神的葛藤や内面の弱さを映し出す力を持ち、特に女性キャラクターとの関係性を通じて彼の複雑な心理が浮き彫りになる。ベルトルッチ=ストラーロによる圧倒的な映像美の中で、その存在感は物語の核心を支えている。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森』/普通の人生を求めるファシスト
イタリアの建物 はとても大きく、広い。ベルトルッチ作品を観てるといつもそんな感想を抱く(余談ながら、でかいといえば、ティント・ブラス『カリギュラ』も、でかいよな)。その対比として、人がひしめくパリの建物は狭い。雪に包まれた森ですら、カメラが傾いていて、閉塞感すら感じる。ベルトルッチ=ストラーロによるこの圧倒的な図像芸術は、そうした空間把握が前提になっているのだと、改めて感じた。
とは言え、やはり大傑作『暗殺のオペラ』に比べると、物語の構造には少し覚束ないものを感じる。特に前半の要素が後半にどう生きてくるのかがわかりづらい作りで、再度確認してもきちんと把握できないところすらある。主人公マルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)が13歳の頃に銃殺してしまったリーノ(ピエール・クレマンティ)はわかりやすく重要であるが、そうした過ちがその後の人生にどういった影を落としたのか、の因果がわかりづらかったりする。精神病院に保護されている父親の「血」や、ひまし油の拷問といった暴力的な暗示はヒントになるが、瞬きのごとく出ては消えていく。
そうした物語の核となりそうな主人公の心理描写は、流麗な映像表現の中でスルスルと溶け出していく代わりに画面を支配するのは、二人の女である。婚約者〜妻のジュリア(ステファニア・サンドレッリ)と、恩師にして暗殺対象の教授の謎めいた妻・アンナ(ドミニク・サンダ)。「普通」の人生を渇望するマルチェロ。それを体現するかのような平凡で母性的な魅力溢れるジュリアと、それでも「普通」でいさせてくれない運命を操るアンナ。
ムッ ソリーニによるファシズムが台頭する第二次世界大戦前のイタリアから、パリへ。この時代、この状況で「普通」を求め続けるマルチェロの人生が、ついに行き着いた場所。この人の決定的な弱さが露呈して、街の風景も表情も赤く染まっていくのだった。
パトリス・ルコント『仕立て屋の恋』を観て、強く奥歯を噛みしめる
蒸し暑い日だった。
何を観てもサンドリーヌ・ボネールが出てる。全フランス映画に出てるんじゃないかと思った時期があった(それはいくらなんでも大げさかもしれないが、マジでジャン=ルイ・トランティニャンは全部に出てるよね?)。パトリス・ルコント『仕立て屋の恋』も、サンドリーヌ・ボネールの映画。それと同じぐらい、ミシェル・ブランの映画でもある。二人の俳優が見事にハマりきってるせいで、80分弱という短い上映時間、ずっと物語の力場がグラグラと、均衡しないまま。
ミシェル・ブラン演じる「イール氏」の精神が試されている。性犯罪の前科持ちで、近隣の住人から嫌われており、女の影もない禿げ上がった男。何より、ロウソクなんじゃないかというぐらい、肌が青白い。そのイール氏が、暇さえあれば向かいの階下に住むサンドリーヌ・ボネールを窓越しに覗き見している。その様はさすがに不気味で、気付いたボネールを骨の髄まで震え上がらせるのだが、そのすぐ後に、彼女は艶めかしい表情で彼の前に姿を表す。わざとらしくトマトを転げ落とすと、這いつくばってそれを拾い集めることで、イール氏を挑発しているかのように見えて、にわかには信じられない。何を考えているのだろう、この女は。
イール氏の精神は長年の労苦を経てカチコチに固まっていて、警戒を解くことがない。胸襟を開かないイール氏も、ボネールの神経も、どうかしているとしか思えない。そんな謎めいた逢瀬も続く中、すべての心情が詳らかになると、俺の歯噛みは止まらなかったです。つらすぎる。
つらすぎる映画でした。面白かった。