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マシュー・ランキン『ユニバーサル・ランゲージ』/この揺らぎ、これが世界

フランス語とペルシャ語が公用語となった西カナダの街・ウィニペグ。どこかヌリ・ビルゲ・ジェイラン『二つの季節しかない村』の主人公を思い起こさせるような教師が、雪道を登校してくる。街と、そこに生きる人、特に子どもたちへの嫌悪を隠そうとしない男による、長く嫌らしい朝の説教までのわずかな瞬間が、校舎の分厚い壁に遮られる。不幸なことに想定通り説教が始まると、それに少し遅れてカメラに映し出されるのは、一人の可哀想な少年がとぼとぼと登校する姿。悲惨な日常への入り口がかくも淡々と描かれると、次の瞬間、教室の中がカットバック的に映し出され、マルクス髭を生やした少年など、露悪的な教師に負けず劣らず、どこか風変わりな子どもたちがそこにいるのを目撃する。微妙に上滑りした教室の光景が、我々の頭を激しく混乱させている。

七面鳥にメガネを奪われてしまい、そのせいで授業を受けられずにいるかわいそうな同級生を救うために、氷の中に閉じ込められたお金を取り出そうとする姉妹。一瞬、目と耳を疑うほどの珍妙さにめまいを覚えていると、夜の闇にずるずるとメガネを引きずっていく七面鳥の姿が映し出されて、驚いている暇などない。これが映画であることが強烈に印象づけられる。ずるずるずる。そんな素っ頓狂なエピソードに加えて、細かく強烈で扱いづらいギャグが絶え間なく繰り出されるのに、それらが単に「おもしろ」として消費されるだけではなく、物語の中心にピースとしてむしろ有機的に取り込まれていくことで、澱むことなくイキイキと輝き始める。

その文法は、アッバス・キアロスタミ、特に名作『友だちのうちはどこ?』のスタイルを、ほぼオマージュに近いぐらい直截的に模倣している。じくじくと冷静に発狂し始めるキアロスタミ、最高じゃん?加えて、ウェス・アンダーソンや小津安二郎のような、強迫神経症的に整理整頓された構図や、ラドゥ・ジュデの数作を想起させる情報量過剰な図像が目を惹くが、オリジナルに溺れることなく、あくまでスタイルはスタイルとして距離が開けている。というか、意図的に取り入れられた極端に過剰な模倣とコラージュで、スタイルが混乱の極で静止してしまったような、そんな独特のバランス感覚を以て「実在するが現実とはかけ離れたウィニペグ」を描写していると、そこに一人の男が現れる。彼の名はマシュー・ランキン。

ウィニペグ出身ということもあり、「ポスト・ガイ・マディン」と呼ばれていた本作の監督マシュー・ランキン本人が演じるその男は、故郷の西カナダを蔑むような腐った上司の取り仕切るケベックの職場に倦み、かと言って特に今後の展望も持たぬまま帰郷してくる。おじさんの異様な泣き声が鳴り続ける無機質な部屋で退職の挨拶をするマシューと上司の会話を、180度視点を変えたカメラが交互に映し続けるのだが、どちらの壁にも掛かっているポートレイト(ケベック未来連合の党首フランソワ・ルゴーらしい)が見えない支配力を誇示するかのように画面に映り続ける一方で、片方の画角からは隠れている泣き声の主である中年男性は、まるで点滅しているかのように存在が毀損されていて、職場や土地の封建的な空気を示しているかのよう。

とりあえずお母さんに会いに行こう。彼がウィニペグの土地に再び舞い戻ると、そこには七面鳥売りのCM、涙の研究をする女、70年代から置きっぱなしになったスーツケース、水の出ない噴水、誕生日ケーキ売りの男、ティッシュペーパー専門店、針のない時計などの奇妙なものやひと、できごとが目の前に現れ、物語の横軸として彼を混沌の只中に巻き込んでしまう。

イランやカナダの歴史、地政学や言語にも不案内な自分には正確な意味を掴むのは難しいレベルで過剰に詰め込まれた情報。しかしながら、肖像画や写真、広告の文言、店名や学校名などに込められた意味がわからなかったとしても、常識破りではあるが非常にわかりやすくエモーショナルに作られた脚本の妙と、それがもたらす驚くような展開と演出が観客を圧倒する。その結果、この世界の土台にあるリアリティの確かさまで疑い出す自分を見出すことになる。

例えば、中心に近づくにつれて色を濃くしていくストリートの名称は、土地の記憶が像を結ぶという運動の一部を構成するだろう。マシューが翻弄され、姉妹が奔走するこの物語は、架空のウィニペグを舞台に、意外な形で相互に大きく影響していく。人と人が繋がり、意識が変容し、土地の記憶が蘇る。街に包みこまれた人々の記憶が、今、改めて鮮度を取り戻し、社会に色が戻って来る。何が現実で、何が騙りなのか。そうした揺らぎこそが、想像する生き物としての我々の持つ、最大の豊かさなのでは?とすら思ってしまうのだ。

MCATM

@mcatm