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アレックス・ロス・ペリー『彼女のいた日々』

遺品整理業者であるニック(Beastie Boysのアドロック=アダム・ホロヴィッツ)がアシスタントとして雇った、若くて美しいナオミ(『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』エミリー・ブラウニング)は、その周辺の人々の生活の歯車をことごとく狂わせてしまう。まるで『テオレマ』のテレンス・スタンプのように。

こういう場合、往々にしてナオミの邪悪な魅力や意志が問題の中心であることが多いが、ここで描かれる彼女は、基本的に「分別があって」誠実な人間であるというのが本作の大きなポイント。ちょっとした下心や困惑など色んな感情を抱えた人々が、ナオミとの距離感を調整していった(すなわち広義の「コミュニケーション」)結果、皆、バタバタと勝手にバランスを崩していく。ニックの妻・アリッサ(クロエ・セヴィニー)のセラピーで語られる「出産の結果、小さな子どもが家庭内のバランスを乱した」という話が物語に呼応するように。

「『何でもない普通の人たちの、何も起こらない人生を描いた映画』は、まだ誰も撮っていないのではないか」というナオミの指摘は、この映画の行き先と終着点を示している。何も起こらない。そして、その何も起こらないという現実が、ある人々にとっての強烈なストレスになっている。その終着点で見せる、ニックの死んだ目は、彼がその表向きの態度や雰囲気とは裏腹に、決して「成熟した/正しい」人間ではないことが示唆される。そして、それは他人事ではない、という平易さが私たちの眼前まで迫ってくるのが、この映画の強烈な批評性である。

「そもそも、未来に対して前向きな思いを持っている人たちは、一握りである」という主張。その一握りの人たちの中に、オーストラリアからやってきたナオミは含まれている。周囲に対して愚痴を言うばかりの「何でもない普通の人たち」をよそに、ナオミはニューヨークで新しく手に入れた職場にも、恋人にも、友だちにも、何の未練もない様子で突然去っていく(それと呼応して、ニューヨークを後にする人物がもう一人いる、というのは重要な事実に思える。その人物が、ナオミとどのような関係にあったのかも)。残された人々は、また愚痴と停滞と諦念の人生にすごすごと戻っていくが、これは彼らが思うように「老い」や「状況」の問題ではなく、「意志」と「姿勢」の問題なのだ。(この辺の問題提起、ノア・バームバックの傑作『ヤング・アダルト・ニューヨーク』と併せて観たい)

日本語で観られる数少ないアレックス・ロス・ペリー監督作品の一つ。撮影はおなじみショーン・ブライス・ウィリアムズで、製作にジョー・スワンバーグが入っている。2つのカップルとその周りの人々による相互作用を丁寧に描いた傑作群像劇で、そのディティールの細やかさに未だ消化しきれていないと感じている。今泉力哉監督作品や、ホン・サンスが好きな方にもオススメします。

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