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The Pleasure of Being Robbed

「…アマンダ!…ジャネット!…ジュリー!」
女が、当てずっぽうの名前を連呼している。「…ドーン!」振り返る女性ににこやかに手を振るエレノア。話しかけてきた相手が誰かわからず困惑しているドーンと気さくに世間話をしている間に、バッグを盗む慣れた手管。道端でぞんざいにバッグを漁り、中に入っていたハンドクリームをとりあえず手に塗りたくると、別の相手からまたバッグを盗む。異常なまでの盗癖を抱えて生きる主人公エレノアの一日を、手ぶれするカメラの視線が追い続ける。フレームアウト…フレームイン…。ヨロヨロと生きる、俺たちの視線みたい。

「こんにちわ、美人さん。こんにちは、ハンサム」
見知らぬ通行人たちに挨拶をするクセの強い老人と、挨拶を導入に盗みを働くエレノアの姿は、「コミュニケーション」を真ん中に置いた合わせ鏡のよう。だが、どちらも邪悪の位相にはいない。

あくる日、卓球場で卓球に興じるエレノア。何故かガチのトーナメントに出場、全く勝てる気配のない無邪気な彼女に「何のために来た?」と問う対戦相手。ここはトーナメントだぞ。俺たちはマジでやってるんだ。彼女は応える「楽しいから」。刹那的な彼女の人生は、目の前に落ちている「楽しいこと」を如何に確かに拾い上げるか、という原理の積み重ねで成立しているのではないか。

その場で出くわした友人と、運転の経験もないまま、盗んだ車で走り出す彼女。眼前に起こる出来事を、ただ楽しもうとする彼女の生き方に「邪悪」は似合わない。その結果として、なんとなくニューヨークに花開いたおとぎ話のように、ふわふわと地に足のつかない物語に見えるような世界を、エレノアはぼんやりと生きて、やがて死んでいくのであろう。

2008年、サフディ兄弟の初監督作(クレジットはジョシュのみ)。NYのストリートを這いずり回って生きるような女性がメインキャラクターであるところは『神様なんかくそくらえ』の主人公ハーリーと被るが、男に振り回されて傷つき、薬物に手を出すハーリーと違い、こちらには悲壮感というものがまるで存在しない。この映画の登場人物たちが、古典的なドラマツルギーや成長譚から外れた(=フレームから外れた)人たちとして描かれていることと、手持ちカメラのフラフラと不安定な動きが、無関係ではあるとは思えなかった。ただ、そこにいる人が、我々の目であるカメラにたまたまフレームインしてしまっただけの、アクシデンタルな映画。映像もさることながら、セロニアス・モンク「Pannonica」を始めとする楽曲が見事にマッチしていて、これがこの街の空気なのか、と勘違いさせてくれている。ホントなのかもしれないけど。

劇伴を担当するHaruki NaginataThe Beetsは、Bandcampで楽曲を発表していた。両者とも、超Lo-Fiで素晴らしいです。

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