動物学者デイビッド・アッテンボローの名前を間違えた「アッテンバーグ」は、映画『アッテンバーグ』における象徴的な言葉遊び。空想と現実の境界、理性と獣性のせめぎ合いを暗示する言葉として機能し、登場人物たちの複雑な関係性を表現している。ギリシャ映画の特異な世界観を体現する一言。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
アリアン・ラベド『九⽉と七⽉の姉妹』
九月と七月。たった10ヶ月差で生まれた姉妹セプテンバーとジュライ。どこかぼんやりしていることをネタに「奇人」といじめられるジュライを護り続けるセプテンバーは、その一方で、いささか過干渉なほど、ジュライに愛情を押し付け、忠誠を誓わせる。
「毒親」ならぬ「毒姉」的な所作でジュライを支 配するセプテンバーだが、二人の間に悲壮感はなく、インド系のシングルマザーである母親と一緒に踊ったり、動物の鳴き真似したりと楽しそうな日々。しかし雷の鳴り響くある日、クラスメイトからのイジメが一線を超え、怒り狂ったセプテンバーがついに父親の実家への引っ越しを余儀なくされるほどの事件を起こす。起こっている…はずなのだが、稲光と編集がその仔細を観客である我々から隠してしまう。しかし、何故、父親の実家??
一家の引っ越しを経て、姉のセプテンバーによる支配はより過剰となる。原題にもなっている「September says(俺は「セプテンバーは命ずる」と訳したい)」の命に逆らうこと叶わぬジュライ。どこかチグハグと噛み合わない支配・被支配の関係は不穏をまとい、強烈な真実へと観客を導くわけ。
ピュッと吹くセプテンバーの口笛は、禁煙であろうと蒸し続ける母親の電子タバコの蒸気と重ね合わされているのかもしれない。セプテンバーの支配が、家族の何に根差したものなのか。シンプルにトキシックな家族関係を想像していると裏切られてしまう。たった10ヶ月しか離れていない姉妹の遺伝子情報まで、俎上で切り刻まれているような生々しい描写。その獰猛さが、例えば台所に侵入する猿の恐怖描写などに現れている。そう、彼女は「アニマル」であった。
決して派手ではない、粗いフィルムの粒子に覆われた画面に、増幅された口元の音。咀嚼に、口笛に、蒸気に、口淫。生理に、ロストバージン。生々しさが物語の周辺を赤く濡らすと、セプテンバーが赤を忌み嫌っていたことを思い出す。
序 盤から、音と編集の組み立てが大変上手く、そのテンションが最後まで続く。『サブスタンス』のような過剰さは抑えつつ、シーンが変わるごとに奇妙なリズム、画角、時間が挿入されて、退屈している暇がない。ラストカット、あの人物は、あんな場所で、いったい何を考えていたのか。呆けたまま完全なる虚無を見つめる姿に、心底やられてしまった。

既に何もかもが忘れ去られたであろう「ギリシャの奇妙な波」の文脈を無理矢理持ち出せば、『アッテンバーグ』でも『籠の中の乙女』でも扱われていた「支配・被支配」の関係性というテーマが、本作でも中心的に扱われていることが確認できる。先の二作なんて、本作の監督であるアリアン・ラベド本人が、その関係性の一翼を担っているのだから、どうしてもその語りの延長線上に考えてしまった。傑作。
アティナ・ラヒル・ツァンガリ『アッテンバーグ』/骸となった街で

空想と現実の間には、ぼんやりとしてはいるが、境界線のようなものが確かにある。そして、たびたびその境界線は、いつの間にか現実に蝕まれている。
冒頭で映し出される、主人公マリーナと親友ベラによる女性同士の濃厚なキス。実際には経験豊富なベラによる「レッスン」であり、性的な興奮や熱は一切感じられない、危なっかしく行ったり来たりする空想と現実の狭間であるが、ここには現実的な上下関係を示す徴がぼんやりと浮遊している。踊り、歯を剥き、股を押さえる。おそらく過去のある一時期のものであろう、随所に挿入されるワンピースを着た二人のシークエンスに観られるような蜜月は、じわじわと決裂していく。まるで、機能を失った街のように。境界線を侵食された空想のように。
アセクシャル傾向を自認するマリーナは、「性欲がない」と病気の父親に相談する。その「性」は、徹底的に「研究対象」として開発され続ける。アラン・ヴェガを崇拝するエンジニアの男性(演じるはヨルゴス・ランティモス)との性行為は、レクチャーの成果確認作業の場として利用され、故に、熱を失っている。死せるノンバーバルコミュニケーションは、ベラとのテニスなどでも象徴的に挿入される。噛み合わない球のやり取り。死んだ街の光景同様、関係性が色を失っていく。
マリーナとベラ、二人が親友であった頃の関係は、ある種の獣同士のコミュニケーションのように、しばしば理性を失った身振りへと発展する。動物学者デイビッド・アッテンボローのことを「アッテンバーグ」と言い間違えるベラ。マリーナの好む アッテンボローと、ベラの言い間違えるアッテンバーグは、空想と現実の波打ち際のような応酬との相似形を以て、二人の関係における理性と獣性のシーソーゲームをも暗示する。死にゆく父の願いを叶える、おそろしく空虚な結末を以て、現実は、街は、曇り空に骸を晒している。

ランティモス『籠の中の乙女』と並び、「ギリシャの奇妙な波」の代表的な一本として知られる、アティナ・ラヒル・ツァンガリ監督作。ランティモスのパートナーとして知られる主演のアリアン・ラベドが、その特異な身体つき含め、やはり良かった。