ギリシャの現代映画界を代表する映画監督の一人。独特の映像美と奇妙な世界観で知られ、『犬の歯』や『ロブスター』などの作品で国際的な評価を得ている。人間の感情や社会規範を歪めて描く独自の映画スタイルは、現代映画における重要な潮流の一つを形成している。
※ AIによる解説文(β)です。当サイトの内容を参照して、独自の解説文を構築していますが、内容に誤りのある場合があります。ご留意ください
アティナ・ラヒル・ツァンガリ『アッテンバーグ』/骸となった街で
空想と現実の間には、ぼんやりとしてはいるが、境界線のようなものが確かにある。そして、たびたびその境界線は、いつの間にか現実に蝕まれている。
冒頭で映し出される、主人公マリーナと親友ベラによる女性同士の濃厚なキス。実際には経験豊富なベラによる「レッスン」であり、性的な興奮や熱は一切感じられない、危なっかしく行ったり来たりする空想と現実の狭間であるが、ここには現実的な上下関係を示す徴がぼんやりと浮遊している。踊り、歯を剥き、股を押さえる。おそらく過去のある一時期のものであろう、随所に挿入されるワンピースを着た二人のシークエンスに観られるような蜜月は、じわじわと決裂していく。まるで、機能を失った街のように。境界線を侵食された空想のように。
アセクシャル傾向を自認するマリーナは、「性欲がない」と病気の父親に相談する。その「性」は、徹底的に「研究対象」として開発され続ける。アラン・ヴェガを崇拝するエンジニアの男性(演じるはヨルゴス・ランティモス)との性行為は、レクチャーの成果確認作業の場として利用され、故に、熱を失っている。死せるノンバーバルコミュニケーションは、ベラとのテニスなどでも象徴的に挿入される。噛み合わない球のやり取り。死んだ街の光景同様、関係性が色を失っていく。
マリーナとベラ、二人が親友であった頃の関係は、ある種の獣同士のコミュニケーションのように、しばしば理性を失った身振りへと発展する。動物学者デイビッド・アッテンボローのことを「アッテンバーグ」と言い間違えるベラ。マリーナの好むアッテンボローと、ベラの言い間違えるアッテンバーグは、空想と現実の波打ち際のような応酬との相似形を以て、二人の関係における理性と獣性のシーソーゲームをも暗示する。死にゆく父の願いを叶える、おそろしく空虚な結末を以て、現実は、街は、曇り空に骸を晒している。
ランティモス『籠の中の乙女』と並び、「ギリシャの奇妙な波」の代表的な一本として知られる、アティナ・ラヒル・ツァンガリ監督作。ランティモスのパートナーとして知られる主演のアリアン・ラベドが、その特異な身体つき含め、やはり良かった。
PITY ある不幸な男
事故で昏睡状態になってしまった妻を前に、毎日泣くことしか出来ない主人公は、周囲の哀れみを浴びた「不幸な男」として過ごす一方で、この「悲しみ」が自分の本当の感情なのだろうかという疑いを持つ。肉体に感情が伴わないのである。白髪は増えないし、食欲も落ちず、同情した階下の女性が毎日持ってくる施しのオレンジケーキを息子と美味しそうに食べて出勤する。そんな中で、「泣く」という行為そのものが、彼にとっての唯一確かな感情の手応えとして浮かび上がってくる。そんな最中、妻の意識が戻る。
「ギリシャの奇妙な波」一派として捉えてもバチは当たらないだろうBabis Makridisの2018年監督作。観客が皆予想した通り、もちろん、悲劇はもたらされる。焦点は、それがどのようにもたらされるかである。脚本を書いた監督Babis MakridisとEfthymis Filippou(ヨルゴス・ランティモスの諸作品を手掛けている)は、この感情のズレを、細かく、しつこく、小さなエピソードに散りばめてみせる。先述のケーキと、クリーニングのエピソードは、かろうじてブラック・コメディにも見えるが、総じて鬱々とした展開が続く。妻の復調を期にこうした失調がズルズルと連鎖していく様は、ハネケ『セブンス・コンチネント』や、アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン』を想起させる。
「泣く」という行為に快感を覚え、その快感を感情の実感として捉えてしまう問題と、常に同情を浴び続けたい、世界の中心で居続けたいと願ってしまう問題は本来別の問題であるはず。しかし、これを無意識、もしくは意図的に混同したまま、主人公の行動は逸脱を続ける。その矛先は、妻本人や息子に飼い犬、父親や隣人に向けられ、エスカレートしていく。ピアノの不協和音、荒れ狂う波に難破する船、催涙ガス、そして決定的な悲劇は、肉体と感情、主観と客観を越えて、家族に襲いかかってくる。そのカタストロフの速やかな導入は、なんとも即物的で、沈み込んでいくような冷え冷えとした暗い光景に包み込まれている。
キャラクターを十分魅力的に描ききれていない、特に妻と息子のキャラクターにはもう5分余計に費やしても良いだろう(本編99分にまとまってるのだから)と欠点に感じたが、特にラストのモンタージュで見せたような、切れ味鋭く癖の強い作風は、ズビャギンツェフともどこか違っていて鮮烈な印象を残した。『Dogteeth』の頃のランティモスを観てるような感覚で、もう何本か撮ったらなんらかの傑作をものする可能性があるのではないかと思ったので、続けて欲しいなあ。