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PITY ある不幸な男

事故で昏睡状態になってしまった妻を前に、毎日泣くことしか出来ない主人公は、周囲の哀れみを浴びた「不幸な男」として過ごす一方で、この「悲しみ」が自分の本当の感情なのだろうかという疑いを持つ。肉体に感情が伴わないのである。白髪は増えないし、食欲も落ちず、同情した階下の女性が毎日持ってくる施しのオレンジケーキを息子と美味しそうに食べて出勤する。そんな中で、「泣く」という行為そのものが、彼にとっての唯一確かな感情の手応えとして浮かび上がってくる。そんな最中、妻の意識が戻る。

「ギリシャの奇妙な波」一派として捉えてもバチは当たらないだろうBabis Makridisの2018年監督作。観客が皆予想した通り、もちろん、悲劇はもたらされる。焦点は、それがどのようにもたらされるかである。脚本を書いた監督Babis MakridisとEfthymis Filippou(ヨルゴス・ランティモスの諸作品を手掛けている)は、この感情のズレを、細かく、しつこく、小さなエピソードに散りばめてみせる。先述のケーキと、クリーニングのエピソードは、かろうじてブラック・コメディにも見えるが、総じて鬱々とした展開が続く。妻の復調を期にこうした失調がズルズルと連鎖していく様は、ハネケ『セブンス・コンチネント』や、アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン』を想起させる。

「泣く」という行為に快感を覚え、その快感を感情の実感として捉えてしまう問題と、常に同情を浴び続けたい、世界の中心で居続けたいと願ってしまう問題は本来別の問題であるはず。しかし、これを無意識、もしくは意図的に混同したまま、主人公の行動は逸脱を続ける。その矛先は、妻本人や息子に飼い犬、父親や隣人に向けられ、エスカレートしていく。ピアノの不協和音、荒れ狂う波に難破する船、催涙ガス、そして決定的な悲劇は、肉体と感情、主観と客観を越えて、家族に襲いかかってくる。そのカタストロフの速やかな導入は、なんとも即物的で、沈み込んでいくような冷え冷えとした暗い光景に包み込まれている。

キャラクターを十分魅力的に描ききれていない、特に妻と息子のキャラクターにはもう5分余計に費やしても良いだろう(本編99分にまとまってるのだから)と欠点に感じたが、特にラストのモンタージュで見せたような、切れ味鋭く癖の強い作風は、ズビャギンツェフともどこか違っていて鮮烈な印象を残した。『Dogteeth』の頃のランティモスを観てるような感覚で、もう何本か撮ったらなんらかの傑作をものする可能性があるのではないかと思ったので、続けて欲しいなあ。

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