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ヨルゴス・ランティモス『アルプス』

カメラに背を向けた主人公が前進する直前、ちょうど一息分ぐらい。スッと間を置いてから時が動き出す。ヨルゴス・ランティモス監督作『アルプス』。謎のグループ「アルプス」に所属するメアリーが、現実との境を見失う(メアリーを演じるのは『籠の中の乙女』『ロブスター』のAngeliki Papoulia)。虚実のあわいを描く映画は山ほどあれど、まさに「虚構を演じる」人々の顛末を描いた物語は、いくらなんでも直球が過ぎる。「他に代わるものがない」という山脈の名を頂くグループにして、肝心の境界はぼんやりと溶けていくわけ。そういう意味では、護られた空想の世界が容赦ない現実に侵食される『アッテンバーグ』とは真逆の運動を捉えた物語なのかも。

「アルプス」のメンバーは、亡くなった人の家族や親戚、恋人など周囲の人々の心を癒やすために、有償で故人の代役を演じている。母を亡くした父と二人で暮らすメアリー。「アメリカ読みの?マリア、ではなく?」と尋ねられてる時点で、自己がぼやけている。テニスプレイヤーの女性が交通事故で運ばれた病院の担当看護師であった彼女は、それをきっかけにアルプスに所属することとなる。新体操選手(『アッテンバーグ』『ロブスター』でおなじみAriane Labed)とそのコーチ、そして冷静なリーダー「モンブラン」の三人と共に、身近な人々を亡くした人たちの下で、様々な役割をぎこちなく演じる主人公だったが、件のテニスプレイヤーが亡くなったことだけは事実を他のメンバーに伏せ、一人、隠れて彼女を演じ続けている。

主人公を現実に留めておくためのタガが外れた途端に、この映画で描かれている世界の信憑性が失われていく展開は、圧巻と言うほかない。「語り手」として劇中リアリティを保証していた彼女が道標を失ってしまったことが判明した瞬間、我々観客も同時に、どこまでが現実だったのかの判断基準を失い、真実か嘘かも判然としない迷宮の中にいる自分を見出す。素人演技じみたぎこちないやり取りは、確かに虚構の人間関係を表しているに違いないが、それでは他のコミュニケーションは本当にぎこちなくなかったか?肉親、友達、職場、恋人。仮にその関係が、実際に嘘偽りのない現実のものであったとしても、それが本当に現実のものとして機能しているのかは、俺達にも、登場人物にも、誰にもわからないのである。

MCATM

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