BEST MOVIE 2025

今年は音楽などの制作に時間を割いていたので、意図して映画鑑賞の量を減らしていました(来年もその予定)。結果、160本鑑賞、うち新作は87本。いつも言っているんですが、森脇健児が月に10本映画を観るとのことで、最低でもそれ以上は観ようと思っている「夢がMORI MORI」世代にしてアンチ。今年も無事、森脇越え、達成しました。
寸評付けながら、今年のベスト10本を挙げさせていただきます。上記のような事情もあり、きちんとしたレビューはなかなか載せられなかったんですが、FilmarksにはiPhone一筆書きレビューを残しているので、気になる方はそちらも参照ください。
https://filmarks.com/users/mcatm
10. ティモ・ジャヤント『Mr.ノーバディ2』
げんき映画枠。真正面からベロシティ高めのアクション映画にして、実は文芸…とか思ってたけど、いやいや全然。最良の部類の げんき映画。今週の発見なんですが、俺はボブ・オデンカークにあの日のブルース・ウィリスを投影しているのかもしれない。
https://www.rippingyard.com/post/XU9JteQ9gtZ05UC6NhWR
9. ババク・ジャラリ『フォーチュンクッキー』
インディー文芸枠。故郷の喪失を根底に抱え、人との触れ合いに障害を感じている主人公の大事な一歩。「フォーチュンクッキー」というタイトルが象徴するように、全ては運の問題だからこそ、我々はあえて外に出るための一歩を踏み出さなければならない。
8. ホ・ジノ『満ち足りた家族』
胸糞韓国映画枠。金持ちの悪徳弁護士と、貧困層にも手を差し伸べる医師の兄弟家族が、倫理ゼロ地点に堕ちていく。これを以て、言うに事欠いて「満ち足りた家族」て。最高に胸糞悪いが故に、俺はこれを教育目的でむすこに見せたい。
7. 団塚唯我『見はらし世代』
邦画新世代枠。仕事を優先した結果、家族を壊してしまった父親。それを許すことの出来ない子どもたち。都市再開発も、ビジネス優先もクソだが、クソにはクソなりの考えがあるのだよ、と立ち止まって一度肯定してみようとする作り手の意識がユニークだった。
https://www.rippingyard.com/post/XPaGR1Oh5vQNV533TUJ7
6. グラハム・フォイ『メイデン』
インディー文芸枠。街を映す地平線に、儚さがにじみ出ている。月だと思っていたら、水面に映った月だったような、現の危うさ。大切な人の死に直面し残されてしまった者。その視点が物語の中心を占めている。路肩に停められた自動車に、これほどまで不安を感じる映画に覚えがない。
5. ザック・クレッガー『WEAPONS/ウェポンズ』
ホラー枠。最高すぎて劇場最前列で震えてた。『ヘレディタリー』以来の、最高ミステリーホラー更新でしょう。ネタバレから逃げ切って、劇場で見て欲しいという思いが強すぎるので何も言えない。観てくれ。話そう。
4. グアン・フー『ブラックドッグ』
中華ノワール枠。病気持ちの黒い犬との関係を経て、人生を再び取り戻そうとする主人公の闘いが描かれる。僕らはある種の「人生の終わり」を眼前にして始めて、人生がいつ始まったのか、を意識するのではないか。
3. 早川千絵『ルノワール』
邦画代表枠。父親の死を前にした少女の生活を中心に、その悲しみを如何にして表出させるのかが丁寧に丁寧に描かれる。大事なことをそのまま感情の爆発として伝えてしまうような表現を巧妙に避け、自由な解釈の余地を残して仕上げるやり方が良かった。
2. ローラ・ワンデル『Playground/校庭』
社会派文芸枠。自慢の兄が学校でいじめられている。その発見に妹としてどう対処するべきかを考え追い込まれ続ける72分。誰が、何を、どうすればよかったのか。議論の場は開けていると同時に、作り手として一旦物語をきちんと終わらせるという作劇的な誠実さも保ちきった傑作。
1. マシュー・ランキン『ユニバーサル・ランゲージ』
アートコメディ枠。七面鳥にメガネを取られてしまった少年を助けるために奮闘する姉妹と、ウィニペグに帰省して母親に会いに行く男。2つの物語が衝突するときに、アイデンティティの喪失 と混交が発生して、世界が反転してしまう。そんな世界の揺らぎをそのまま収めた驚くべき傑作でした。
https://www.rippingyard.com/post/4ZclCb69Wgl6nXfY5Aa7
ということで、今年はこんな結果になりました。また来年お会いしましょう!
ユニバーサル・ランゲージ
Playground/校庭
ルノワール
ブラックドッグ
WEAPONS/ウェポンズ
メイデン
見はらし世代
満ち足りた家族
フォーチュンクッキー
Mr.ノーバディ2
ここ二週間の薄皮を重ねていくような丁寧な描写の果てに迎えた今日の『ばけばけ』。直接的な一言はついぞ吐かれることないまま、ある想いの成就は完璧に納得させられる。それを支える、演技、カメラ、音。そしてオープニングクレジットにはいつもの写真はなく、逆光に佇む二人の姿が重なっていく。エンドロールかと思ってしまいました。
M-1グランプリ2025。2008年の敗者復活、その頃は中継もなく、今も続けている「M-1の日は大掃除をする」という習慣に従って、大井競馬場の様子をタイムラインで伺いながら歓喜したオードリー以来の、「推しのコンビが敗者復活から決勝進出」という至福を味わった。あんまり冷静ではなかったかも。
翻って、本戦。今年は本当に、過程が良かったですね。そういう意味では、2019年(ミルクボーイ)、2021年(錦鯉)に匹敵するものがあった。下馬評は、真空ジェシカ、エバース、ヤーレンズ。三組とも爆発したが、その中でも最も火力の高かったエバースが抜けて、後は初進出組というバランス。M-1は、熟練の技術を楽しむ場であるのと同時に、新味も非常に重要であることは御存知の通り。そういう意味では、「売れてない中堅〜ベテラン」の有利が味方する。正直、ドンデコルテの成長と爆発には仰天してしまったが、それ以上に爆発したたくろうの優勝は納得しかない。これに関しては駒場さんの審査コメントが非常に的確だったことに感心している。挙動不審の人間を笑うネタに見えるのだが、人の話も聞かず狂っているのは完全にきむらバンド。狂人に踊らされた赤木は、ボケとツッコミの両方をやらされる羽目になってしまう。妻はもう数年来のたくろうファンなので、結果に泣いてた。
カナメストーンは、二人の良さが伝わる形で決勝に出られて本当に良かった。もちろん、最高の結果とは言えないかもしれないけど、十分な結果。売れた。また好きなコンビが売れてしまった。今は寂しさよりも嬉しさが勝っている。相席食堂が楽しみ。いつもカナメちゃん村で泣き出す零士をやさしく受け止めてるヤーチーが、場面場面で今にも落涙するかのように感極まっている珍しい光景を観て、しみじみしてしまったな。
今朝の『ばけばけ』、しじみさんとヘブン先生の部屋が画面中央で分けられ、暗い部屋から明るい部屋に足を踏み出す瞬間、使われる人間の領域から対等な関係になることを示唆している。すごくわかりやすいが、光を効果的に使った演出に感じ入った。いよいよ怪談を話す、という段になって、やおら立ち上がったトキは、簾を下ろして、屋内は一律に暗くなり、蝋燭の細い灯りの前に、どこか艶めいた顔を見せるのでした。
Arrrepentimientoの新作制作進捗。構築→破壊→構築→破壊のプロセスと、デッドラインの概念に、根本的な齟齬がある。何度もデッドラインから遠ざかりながら、それでも少しずつ前には進んでいるはずなんだけど、「破壊」の最中はそれが際限なく遠ざかっているように見えるので、かなりしんどい。しかしながら、混沌としていないものには魅力を感じないので、どうしても破壊に傾倒しがちである。
ということで、これから再度構築の段階に入っていくことにする。これって、パスタソースを作るときに、何度も茹で汁を足していく工程に似てる。
Sister Irene O'Connor - Fire of God's Love
https://music.apple.com/jp/album/fire-of-gods-love/1825915538
「クリスチャンロックとか超くだらねえ」って言ってたのって誰の何の作品だっけ?と思ってたら思い出した、ワシントン・ポーだ。俺も概ね同意してたんだけど、よく考えたらそんなことねえわ。このSister Irene O'Connorもその好例で、リアル修道女である彼女が、聖書の教えをベースに歌うフォークソングなのだが、なんともトンチキな電子音が飛び出したり、とにかく様子がかなりおかしい。と言っても決して出オチものではなく、オブスキュアだがしっかりと構築されたトラックと演奏で、正直相当レベル高い。
https://natalie.mu/music/news/651338
言葉もないとはこのこと。恢復をお祈りしたいが、それも難しいということなのかな…。新作はなんとなくウォーミングアップ的な雰囲気を感じていたので、本格再始動を楽しみにしていたのだが、どういう形になるのか気になってる。
ポール・ダノの方がタランティーノの数万倍、俺にとっては重要だとはっきり申し上げたい。てんで話にならないレベルです。
https://variety.com/2025/film/news/quentin-tarantino-paul-dano-weakest-actor-1236598453/

土日に妻もむすこもいなかったので、そんな時にしか出来ないことって何?と考えた結果、世田谷から田町までチャリを飛ばして11km。途中、渋谷で映画観てから、同僚おすすめの店「宗屋」へ。まあ、アメイジングプレイス。完全に圧倒された。東京の最強立ち飲み屋が更新されてしまった。これ目当てで用事のない田町に無理矢理用事を捻り出したい。
酒を抜くためにサウナ「PARADISE」。こちらも目当てだったんだけど、銭湯カードがなくて残念。すごく良い施設だが、俺は風呂に入りたいのだ、という気持ちを再確認する、など。
ジャック・ロジエ『オルエットの方へ』

ヴァカンス映画って、結局ヴァカンスの終わりを描きたいんだな…。痛感した。少なくとも、俺は見たい。別荘にやってきた女子3人のヴァカンスは、やれ風呂がねえと言っちゃケラケラ笑い、腹が減ったと笑い、ボールが転がったつってゲラゲラ笑って時間が過ぎていく。寂れた避暑地に「オルエットの方へ」と看板を見れば、「カジノもある!」と笑い転げる。しまいには、「オルエット!」って巻き舌発音で爆笑している。
正直、かなり終盤まで、本当になあんにも起こらない。会社勤めのジョエルの上司ジルベールが偶然を装ってやってきても、ウナギぶちまけたりするだけで、何にも起こらん。今日は釣り、明日は乗馬、次の日はヨット。と、遊んでいるだけの3人に、しかし黄昏は唐突に訪れる。
そんな終わりの鐘の音が聞こえるような晩餐シーン。海で会ったパトリックと遊びに出てしまったカリーヌに置いて行かれた二人を、ジルベールがとっておきの料理でもてなそうとする夜、歯車が少しずつずれていた人間関係の崩壊が決定的になってしまう。この時点で、多分2時間超えてる(時計見てないけど)のだが、これまでの退屈が爆発する 。起こっていることは些細なのに、ポイント・オブ・ノー・リターンをとっくに超えてしまったことは明白だし、そのことに皆が(深層では)気づいてしまった。かくして、ヴァカンスは終わりを告げ、その終わり方は日常にまで影を落とす。かくも容易に、何もかもが終わりを告げるのだ、という力なき目線。俺には、彼女たちの友情すら終わってしまったように感じたが、それも全部夏のせいの勘違いかも。

退屈退屈とは言ったが、主演の三人がとにかくキュートなのと、映像が美麗なので、実は全然見れてしまう。見惚れてぼんやりと過ごしていると、いつの間にか夏の終わりの夕闇が迫っていて、寒さとなんとなくの寂しさに震えてしまう。そうして振り返ってみれば、馬に乗るシーンや、ヨットを押して浜辺を駆けるシーンなど、ちょっとだけ過剰な躍動感を感じる部分もあったり、「夜遊びに行こう」と誘われたのに、場面は次の日の朝になっていたりと、退屈の中にもこちらの感情を振りまわすような確かな不穏さはあったのでした。
キリル・セレブレニコフ『リモノフ』/芸術的自暴自棄の末路

詩作の才はあれど、ビジネス的な成功には程遠い。そして程遠いのも己のせいである。もっと言えば、要は「あいつ、才能はあるんだけど、なかなか売れないなー」みたいな人、100や200で足りないぐらい見てるはず、みんな。「そんなリモノフ=エディが成功したのは、何故なのでしょう」みたいなサクセスを描くことを明確に拒否するならば、その終着点が「国粋主義」だったことに対峙慄然せざるを得なくなる。国家ボルシェビキ党(観終わってすぐ調べてようやくピンときた。あいつかー、聞いたことあるぞ!)なるものに導かれた、この自暴自棄で行き当たりばったりな旅。最初はキリル・セレブレニコフ、あの『LETO』の監督ですから、英雄譚に仕上げるのでしょう、と思っていたら、そんなバイアスは一切かからぬまま、「横ではなく、縦に切るのよ」と言われたリストカットの作法のように、ウロウロとためらい傷のような人生がダラダラと続いていくように見える。しかし、共感はある。
「俺はここにいない、だが存在している」。リモノフによる印象的なフレーズは前半と後半で二度も引用されるが、「芸術家たる自己はなきものとされ、社会に隷属する時だけ顕になる状況」を指すのであれば、それはまさに陽の目を見ない全てのアーティストに当てはまる表現である。方や、ソ連時代から無能を晒していた詩人仲間は、無能なまま一目置かれる存在となり、彼のそんな政治的な成功を嫌悪する一方で、「老いが怖い」という視点に立てば結びつきを感じたりもする。
路傍の石、たる自分が、誰からも相手にされないまま、狂態晒して勝ち取った恋人・エレナも、「狂っている」リモノフが故に魅力を感じていて、それは「老い」と無関係のファクターであるとは言い切れぬ。ルー・リードの如くワイルドサイドを闊歩するニューヨーク時代。引き続き何者でもないリモノフと、モデルとしてショービズの世界に蹂躙されるエレナ。二人の日々はまるで魔法がかかったかのように輝きを以て描かれ、それを増幅させる鏡細工はイミテーションなのであるが、その日々を思い出してかつての恋人を妄顕させる時、やはり鏡細工は弱々しい光を乱反射させていて、リモノフの後ろ姿はとても良い寂しい。
自棄の果てに、ニューヨークの街中で腐っていくリモノフ。「どうしてでも、有名になりたいのだ」という妄執は、いよいよ街中で暗殺されたり、街中で暗殺したりを夢想してしまうほどに育ってしまう。しかし結局リモノフは有名になり、顕になった世界の空虚さの中でスターリニズムを求め、極右に走る。その根本には、イミテーションの振る舞いがあって、マスコミから求められる通りに身振りを繰り返す彼に、そのトリックスター的性質を見出してしまう。
実在の人物を扱うということに伴う足枷みたいなものを感じなくはなかった(俺にとってセレブレニコフのベストが未だ『インフル病み〜』なのは、それ故だろう)が、それもベン・ウィショーの素晴らしい演技(ルー・リードに声が似ている)と、監督の作風であるアニメー ションとトリッキーな仕掛けによって、ある程度は克服されているように思えた。しかしながら、そんな効果を差し置いて、この作品の中で、主人公が本当に真摯だった瞬間は、男に抱かれたことを「最高の体験だった。一度はやってみることをおすすめする」と言ったシーンだったのかもしれない。孤独と疎外感。アーティスト誰もが抱える感覚が行き着いた先は、(ヒトラーと同じように!)国粋主義・ファシズムだったという無念さを感じずにはいられなかった。
アリアン・ラベド『九⽉と七⽉の姉妹』
九月と七月。たった10ヶ月差で生まれた姉妹セプテンバーとジュライ。どこかぼんやりしていることをネタに「奇人」といじめられるジュライを護り続けるセプテンバーは、その一方で、いささか過干渉なほど、ジュライに愛情を押し付け、忠誠を誓わせる。
「毒親」ならぬ「毒姉」的な所作でジュライを支配するセプテンバーだが、二人の間に悲壮感はなく、インド系のシングルマザーである母親と一緒に踊ったり、動物の鳴き真似したりと楽しそうな日々。しかし雷の鳴り響くある日、クラスメイトからのイジメが一線を超え、怒り狂ったセプテンバーがついに父親の実家への引っ越しを余儀なくされるほどの事件を起こす。起こっている…はずなのだが、稲光と編集がその仔細を観客である我々から隠してしまう。しかし、何故、父親の実家??
一家の引っ越しを経て、姉のセプテンバーによる支配はより過剰となる。原題にもなっている「September says(俺は「セプテンバーは命ずる」と訳したい)」の命に逆らうこと叶わぬジュライ。どこかチグハグと噛み合わない支配・被支配の関係は不穏をまとい、強烈な真実へと観客を導くわけ。
ピュッと吹くセプテンバーの口笛は、禁煙であろうと蒸し続ける母親の電子タバコ の蒸気と重ね合わされているのかもしれない。セプテンバーの支配が、家族の何に根差したものなのか。シンプルにトキシックな家族関係を想像していると裏切られてしまう。たった10ヶ月しか離れていない姉妹の遺伝子情報まで、俎上で切り刻まれているような生々しい描写。その獰猛さが、例えば台所に侵入する猿の恐怖描写などに現れている。そう、彼女は「アニマル」であった。
決して派手ではない、粗いフィルムの粒子に覆われた画面に、増幅された口元の音。咀嚼に、口笛に、蒸気に、口淫。生理に、ロストバージン。生々しさが物語の周辺を赤く濡らすと、セプテンバーが赤を忌み嫌っていたことを思い出す。
序盤から、音と編集の組み立てが大変上手く、そのテンションが最後まで続く。『サブスタンス』のような過剰さは抑えつつ、シーンが変わるごとに奇妙なリズム、画角、時間が挿入されて、退屈している暇がない。ラストカット、あの人物は、あんな場所で、いったい何を考えていたのか。呆けたまま完全なる虚無を見つめる姿に、心底やられてしまった。

既に何もかもが忘れ去られたであろう「ギリシャの奇妙な波」の文脈を無理矢理持ち出せば、『アッテンバーグ』でも『籠の中の乙女』でも扱われていた「支配・被支配」の関係性というテーマが、本作でも中心的に扱われていることが確認できる。先の二作なんて、本作の監督であるアリアン・ラベド本人が、その関係性の一翼を担っているのだから、どうしてもその語りの延長線上に考えてしまった。傑作。