アリアン・ラベド『九⽉と七⽉の姉妹』
九月と七月。たった10ヶ月差で生まれた姉妹セプテンバーとジュライ。どこかぼんやりしていることをネタに「奇人」といじめられるジュライを護り続けるセプテンバーは、その一方で、いささか過干渉なほど、ジュライに愛情を押し付け、忠誠を誓わせる。
「毒親」ならぬ「毒姉」的な所作でジュライを支配するセプテンバーだが、二人の間に悲壮感はなく、インド系のシングルマザーである母親と一緒に踊ったり、動物の鳴き真似したりと楽しそうな日々。しかし雷の鳴り響くある日、クラスメイトからのイジメが一線を超え、怒り狂ったセプテンバーがついに父親の実家への引っ越しを余儀なくされるほどの事件を起こす。起こっている…はずなのだが、稲光と編集がその仔細を観客である我々から隠してしまう。しかし、何故、父親の実家??
一家の引っ越しを経て、姉のセプテンバーによる支配はより過剰となる。原題にもなっている「September says(俺は「セプテンバーは命ずる」と訳したい)」の命に逆らうこと叶わぬジュライ。どこかチグハグと噛み合わない支配・被支配の関係は不穏をまとい、強烈な真実へと観客を導くわけ。
ピュッと吹くセプテンバーの口笛は、禁煙であろうと蒸し続ける母親の電子タバコの蒸気と重ね合わされているのかもしれない。セプテンバーの支配が、家族の何に根差したものなのか。シンプルにトキシックな家族関係を想像していると裏切られてしまう。たった10ヶ月しか離れていない姉妹の遺伝子情報まで、俎上で切り刻まれているような生々しい描写。その獰猛さが、例えば台所に侵入する猿の恐怖描写などに現れている。そう、彼女は「アニマル」であった。
決して派手ではない、粗いフィルムの粒子に覆われた画面に、増幅された口元の音。咀嚼に、口笛に、蒸気に、口淫。生理に、ロストバージン。生々しさが物語の周辺を赤く濡らすと、セプテンバーが赤を忌み嫌っていたことを思い出す。
序盤から、音と編集の組み立てが大変上手く、そのテンションが最後まで続く。『サブスタンス』のような過剰さは抑えつつ、シーンが変わるごとに奇妙なリズム、画角、時間が挿入されて、退屈している暇がない。ラストカット、あの人物は、あんな場所で、いったい何を考えていたのか。呆けたまま完全なる虚無を見つめる姿に、心底やられてしまった。

既に何もかもが忘れ去られたであろう「ギリシャの奇妙な波」の文脈を無理矢理持ち出せば、『アッテンバーグ』でも『籠の中の乙女』でも扱われていた「支配・被支配」の関係性というテーマが、本作でも中心的に扱われていることが確認できる。先の二作なんて、本作の監督であるアリアン・ラベド本人が、その関係性の一翼を担っているのだから、どうしてもその語りの延長線上に考えてしまった。傑作。
団塚唯我『見はらし世代』
冒頭でトラックが横切った時点で、これは目が離せませんぞ、と舌舐めずり。こ・れ・は!どうしますかみなさん!

大事なコンペのために家族旅行を切り上げて帰ることにする、と妻に告げる建築家の夫。「三日間は家族のことだけ考える」という約束は反故にされ、「明日までは子どもたちといて」という妻の願いに、「…ちなみに…今日の夜帰るってのは…行けそう?(どお?)」。まるでブレッソンのような静謐で息詰まる駆け引きから、帰路のトンネルに一続きの灯りで一気にタルコフスキーへ。
何があったのかは知らん。いつの頃からか、日本の俳優たちのクオリティが飛躍的に上がったため、「役者が素晴らしい邦画」を山ほど見るようになった。その、素晴らしい役者たちの、素晴らしい達成一つ一つをこぼさないように、いっぱいに掌を広げたような映画。だから、こぼれ落ちそうなディテールの一つ一つを、私たちも記憶していかなければならない。「あんまり、おやじに、近づきすぎない方が、いいと、思う。よ。」黒崎煌代は、大俳優になるポテンシャルあると思う。よ。
家族を顧みずに仕事に没頭し、ランドスケープデザイナーとして大成功を収めた父。その代償として、家庭は破綻した。胡蝶蘭デリバリーの仕事を、惰性と諦念の中続けている息子。結婚を見据えた同棲を間近に控える娘。疲れ果てたように見える母を含めた四人の関係性と、さらにそれぞれに独自なコミュニティと、そうしたひとつひとつにスポットを当てれば、光は乱反射して別の意味が生まれてくる。
例えばこう。娘は自分の家族の経験もあって、結婚話を進めていくことに不安を感じている。その悩みは「惰性で一緒にいた結果、他の選択肢を失った」というような言い方で協調を強要する彼氏には理解されない。しかし、乱反射した光は、かつて「同棲相手に、何でもやってあげるのは、やめた方がいい」とアドバイスされた過日の些細な瞬間を照射する。しかし、どお?そのアドバイスをした当人が、数日後には、他の人と生きるということに深く悩んでいるのだ。
例えばこう。息子は胡蝶蘭の仕事をしながら、近所の炊き出しに並んで昼食を摂る。確かに薄給という事情はあるだろうが、そもそも食べることに興味があるようにも見えない。ホームレスが並ぶその炊き出しの公園は、再開発のために撤去されるが、彼の父はホームレス排除を目的とした宮下公園再開発で名を成したデザイナーなのだ(あれってどうやってあんな設定にしたんでしょうね。実在の当人は嫌だろう)。
「うちの会社の女性、みんな髪が短いの、なんでですか?」。尊敬も萎び消え、会社を私物化してるとすら思われているその社長=父は、自分たちのキャパを超えるほど巨きな公共事業の仕事のコンペ参加を決めたことで、スタッフから非難されている。問題はキャパシティのことだけではなく、その再開発が、またしてもホームレス排除に繋がってしまうという社会的な悪影響もスタッフの顔を曇らせる。苦言を呈するスタッフに「ホームレスをどうにかするのは行政の仕事だろ」といなすと、かつての家族旅行の様子が頭をよぎってしまう。
再開発と倫理観の欠落。かくして、渋谷の再開発を明確に批判していながら、この映画は資本主義批判に留まらず、彼の地の若者たちが街を謳歌する姿を映すことで、今のアクチュアルな街の在り方を肯定してみせる。今の世代、それを「見晴らし世代」と呼んだのかもしれない、その世代が、前世代にはわからない形で街を生きる、その姿にノーを突きつける権利を持つものなどいない。そんな大前提がコンテクストの水底から浮かび上がってくるのだ。
家族が再生に向けて動き出すのか。事はそう単純ではなく、父と息子の邂逅(代官山での絶叫と、クビになってからのワンカット退職連鎖描写は、ほかのいくつかのシーンと合わせて、この映画の大いなる達成である)を経ての、ドライブイン。家族四人で最後に食べたのと同じシチュエーションで、黙々と飯を掻っ込み続けて姉を呆れさせる二人の足元に電球は破裂落下すると急転直下の奇跡が顕現し、それを現実逃避と拒絶する人もいるかもしれないが、俺は膝が震えた。これは、エンターテイメント。もしくは、おとぎ話。
家族の物語がなんとなく、少しだけ前(しかし、前って、どっち?)に進むと、物語は都市=渋谷を俯瞰しはじめ、家族は後景に沈む。果たして、これまで構築してきた物語とは接続困難な展開を以て団円とするが、もうここは「見はらし世代」。代々木公園から原宿に降りてくる辺りを、LUUPに乗って蕎麦の話をする若者のことは我にはわからん。我にはわからんが、そこには文化が、人生が、物語があるのであろう、ね。
M-1準々決勝。まだTver観始めたばっかだけど、空前メテオと十九人通ってなかったのはマジで意味わからんなー。まあ、準決勝の出来がそれだけ良いことを期待してしまいますが、にしても空前メテオ、侍スライスの評価がM-1サイドと合わない。2つとももうひとつふたつ上で良いんじゃないかと感じてしまう。