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もう終わりにしよう。

大変困った。話題になっている、Netflixオリジナル作品として配信されたチャーリー・カウフマン監督作を観た。ネットに溢れる数々の秀逸な感想、解説(特に重要なのは、チャーリー・カウフマン自らが疑問に答えた記事)を読む前に、自分の解釈を書き記しておくのがオススメ。超混乱しながら自分なりの結論をまとめ、改めて映像を確認しながらいくつか解説を読んでみたけど、それでも解釈の分かれる余地はたっぷりと用意されている。自分ではちょっとネタバレ解説する勇気が湧かないので、ざっくりと概要を書きながらの感想に留めたいと思います。

ある女性(劇中で「ルーシー」という名は与えられているが、クレジットは「Young Woman」)がその交際相手であるジェイクと、彼の実家を訪問するため、雪の中、車を走らせる。主人公(?)であるその女性は、「もう終わりにしよう」という言葉を切り出せずにいる。しかし、彼はまるで心が読めるかのように、一瞬その言葉を聞く。不気味な空気をまとったまま、旅が続く。

決定的に説明不足な謎が次々に提示され、その処遇に困っているうちに明後日の方向に事態が展開するので、起こっていることにもストーリーにも全く対処出来ないまま物語が進行していく。新しいブランコ、妙に状況の重なる自作の詩。凍ったまま放置された羊、生きたまま蛆が湧いた豚、身体を震わせ続ける犬。何故かジェイクの実家に飾られた幼少期の自分の写真、封鎖された地下室、ラベルの付けられたドア、チェイン、誰も手を付けない夕食。切り出された大きな肉の塊が、グロテスクな連想を呼ぶ。

主人公は、理不尽に待たされる。両親はなかなか降りてこないし、やっと着いた実家には入らないし、恋人はどこかに消える。ウェイトレスは来ないし、先の見えない道は終わらない。不可解な遅延に、時間をハンドリングできない感覚を覚える。彼女自身がひとりごちる。「人は動かない。時間が風のように通り抜けていく」

カサヴェテス『こわれゆく女』、ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』などの作家の議論が続く車内。冒頭で自分が感じたこの物語に横たわる妙なチグハグ感を説明しているように感じた、デヴィッド・F・ウォレスのルッキズムに対する言及は、「舞台」の存在を意識させる。こうして用意された「舞台」の主役として抜擢された主人公が、意図に反して抵抗を試みる物語として読んだ時、ラストシーンの光景に物悲しさを感じてしまった。

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