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No Man’s Sky

2016年に日本語版が発売され、それ以来あまりプレイしていなかった『No Man’s Sky』を久しぶりに起動してみた。数々のアップデートが繰り返された結果、全く別のゲームになっているという噂がずっと気になっていたから。確かに。実際、全く違う感触のゲームになっていた。

発売前は、「プロシージャルに生成される無限に近い数の惑星!(1800京!!)」「そこに住む自動生成された多種多様な生物を探索!」「広大な宇宙で勃発する、血湧き肉躍る戦闘!」といった惹句が並んだが、実際のゲームは割と単調で寂寞としていた。その結果、大量の否定的な評を受け、挙げ句「過大広告」の廉で訴ったえられるというところにまで事態が及んでしまった。しかしながら、「1800京の惑星とそこに住む自動生成された生物、鉱物や植物」というテーマは、尽きない魅力を保っており、数回にわたる無償のアップデートの結果、低評価を覆している。

ある惑星の探索を終え、宇宙ステーションに戻ろうと大気圏を抜けた私の眼前に広大な大宇宙を実感した時、自分が広大な宇宙の塵にも満たない存在であることを自覚してしまい、底知れない恐ろしさを感じた。なので実際問題、あんま気楽に遊ぶ気にもなれない。以前とは異なり、大量に存在するNPCやオンラインでつながっている他のプレイヤーを目にしても、彼らも私同様の底知れぬ孤独の恐怖と戦っているように見えてしまう。このゲーム内宇宙がある種の意思、システムに支配されており、それが人智を超えた規模で展開していく以上(作者自身もどんな星、どんな生物が存在しうるのか、完全には把握できていないという)、これはすなわち「ゲーム内世界」は僕らの住む現実世界とは異なる世界なのだ、ということを証明するのは難しい…という気がする。そんなものを「ゲーム」と軽々しく呼んで良いのか、俺達は。

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