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聖なる犯罪者

ノコギリの軋む不快な音から物語は幕を開ける。主人公を取り巻く不快な「意志」を湛えた空気がそこにある。犬は吠え、雨は身体を打ち付ける。牙を剥く野蛮な現実と、神聖な世界は相対しているようで、彼の信仰は、その相対にこそ立脚しているように思える(告解の部屋が隔てる世界の様相を見よ)。では、クソのように思える現実の反対側は、果たして「神聖」なのだろうか。

少年院から釈放された主人公は、院で薫陶を受けた神父の名を騙ることで、前科者には就任不可能な司祭の任務を任されることになる。製材所のあるこの村でかつて起こった、7人の被害者を出す凄惨な事件が、住人たちに癒しがたい傷を与えている。物語は当然、「彼の嘘がどのようにして暴かれるのか」「この事件はどのような結末を迎えるのか」を中心に進行することになる。多様な照射角度を持った巧みなストーリーテリングで、彼の物語に与えられたサスペンスは観客の心を捉えることとなる。

しかし、実に丁寧に肉付けされていく物語の幹は、いつの間にか、神と人の間に働く力の均衡をその主題に据えることとなる。「神の采配」として処理された悲惨な出来事に傷を負った村の人々は、その憤りに蓋をしようとしない主人公の演じる偽神父によって、ある種の解放を体験することとなる。気がつくと、彼は村を導いている。同時に観客も、彼が持っていた「導きの力」を確認することになる。

それでは、彼の「導き」は果たして適切だったのか、この映画はその答えをわかりやすく掲出しようとしない。辛うじて、終盤に救いとなるようなカットが用意されているが、それをもってしてもある角度から観察すると、彼の行為はほぼ事態を悪化させただけなのかもしれない、という可能性を否定することはできないままである。神の行動倫理はもっと単純明快。「信じるものは救われる」である。しかし、彼は、時に非情と思える采配を行う「神」の対極にて、つまり「人」として、ささやかに物語に干渉した。

序盤で、酒を飲みドラッグを摂取、忘我の果てに暴力をふるい、目を剥いて踊り野蛮なセックスにふける主人公の姿と、しかし同じ人物が少年院の消灯後の独房でロザリオを手にして祈りを捧げる姿の二面性がテーマなのかと思った。「聖」と「邪」が一人の人物の中にある矛盾。しかし、これは一方で、ある存在が運命に対峙する際のふるまいの違いを描いた物語なのだ、と思う。つまり「神」と「人」では。

ラストシーンでこちらに迫りくる主人公に息を呑む。これは単純に、画が、表情が、光が、すごいのである。しかし、同時にこれはこういうことでもある。「流れに身を任せるさ」と言ったとおり、神の導きに従えば拍子抜けするほどいとも簡単に聖職者になり、当てずっぽうで発したの神学校もどうやら存在するし、強烈な自分の才能もいつの間にか開花する。しかし、人の世に、神の示唆に、運命に、背を向けて半裸の自分をさらけ出す時、彼に必要なのは抵抗の覚悟なのである。

人の世でサバイブするのは難しい。歯をむき出して息も荒く、涎を垂らしながら血を流すような覚悟がむき出しになった顔を捉えた、満点のラストショットに震えた。

ポーランドのヤン・コマサによる監督作。主演のバルトシュ・ビィエレニアは今後も目にする機会がありそうな、圧倒的な存在感だった。原題『Boże Ciało(Corpus Christi)』は、「キリストの身体」という意味だそう。

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